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東大新人会 民社党へ着地するインテリの一系譜

日本会議と共闘する労働戦線は、どう作られてきたか <4>

藤生 明 朝日新聞編集委員

 東京・本郷。1969年1月18日は早朝から喧噪に包まれていた。いわゆる「東大紛争」最後の2日間である。

東大紛争を伝える朝日新聞紙面。同じ日、東大新人会の50年記念集会が開かれていた=1969年1月18日付東京夕刊
 機動隊はその日、反代々木系の学生らが占拠した大学構内に突入。ガス弾と放水を浴びせ、学生らは投石や火炎瓶、ベンチを階下に落として応戦した。上空にはヘリコプターが飛び、地上では警備車両がジリジリと警備ラインを押し上げていた。

 まったく同じ日だ。東大構内で東大OBら約90人の集いがあった。大正デモクラシーのイデオローグ、吉野作造・東大教授の影響下に組織された東大新人会の五十周年祝いである。

マルクス主義へと傾斜した東大新人会

 新人会は1918年12月5日、普通選挙実現を目標に結成され、次第にマルクス主義へと傾斜していった思想・行動集団。元会員の石堂清倫、竪山利忠両氏がまとめた『東京帝大新人会の記録』によると、活動11年間で約350人が入会。治安維持法違反での逮捕者は100人を超えたという。

論文が危険思想として有罪判決を受け、東大を追われた森戸辰男氏。戦後、片山・芦田内閣で文相を務めた=1970年ごろ

 この日の会には、そうそうたる顔ぶれが集まった。歌人・柳原白蓮との駆け落ちで知られる創設会員の社会運動家・弁護士、宮崎竜介氏のほか、大宅壮一(評論家)、田中清玄(フィクサー、田中愛治・早大総長の父)、中野重治(詩人)、新明正道(日本社会学の大家)、住谷悦治(同志社大学総長)各氏や国会議員多数。

 関係者として、森戸事件(1920年)で東大を追われた森戸辰男元文相もかけつけ、祝辞を述べた。森戸氏は戦後、社会党右派の理論的支柱となり、その後の民社党とも関係の深かった人物。愛国心の育成を盛り込んだ中教審答申『期待される人間像』(1966年)で会長でもあった。

 出席者には、民社党結成メンバーの一人、棚橋小虎(ことら)元党参院議員会長もいた。参加者中、最年長会員。森戸氏に続き新人会OBのトップバッターとして、こう切り出した。「私が大学を卒業したのは1917年。新人会誕生の2年前です。そこで、新人会の生まれる前のことを話したい」

吉野作造・東大教授の強い影響

 棚橋氏は1889年1月、長野県松本市生まれの社会運動家・政治家・弁護士。1907年、キリスト教受洗。代用教員をへて旧制三高(京都)、東大法科に進学。新人会の創立時にはすでに大学を卒業していたOB会員7人のうちの1人だった。

無産諸政党のリーダー、麻生久氏。後年、軍部との提携を訴え、陣営に波紋をよんだ=1932年ごろ
 その7人には、興味深い名前が並んでいる。三高仲間として、麻生久(日本労農党創設、麻生良方・元民社党衆院議員の父)、岸井寿郎(戦前の衆院議員、岸井成格・元毎日新聞主筆の父)、山名義鶴(貴族院議員、民社党結成に奔走)の各氏。そのほか、稿を改めて詳述するが、七高(鹿児島)出身の佐野学(日本共産党元委員長、獄中転向)、慶大卒の野坂参三(戦後の共産党議長、後に党除名)の両氏もいた。

 いずれも吉野作造東大教授に影響を受けた人々で、とりわけ、棚橋氏は鈴木文治の友愛会に強い関心を抱き、労働運動に加わることを熱望した。棚橋氏は冒頭の集会でその動機を語っている。

参院本会議で質問する右派社会党の棚橋小虎参院議員。民社党結成に参加した=1954年3月26日
 「役人や日銀、満鉄、八幡製鉄所が卒業生の理想でした。私はそちらへ行かず、ひとつ労働組合運動をやって、労働階級に我々の考えをしっかり植えつけ、それで日本の改革をしなければならいと考えていました」

 ところが、その頃の友愛会には資金的な余裕はなく、鈴木文治会長からは「しばらく待ってくれ」。やむなく司法官試補(司法修習生)をした後、1917年に友愛会本部入り。造船所のあった「労働者の街」月島で、友愛会員・新人会員として、労働者生活調査にかかわったり、鉱山での労働争議を指導したりした。

急進主義に抗し「労働組合へ帰れ」訴え

 やがて、新聞記者を辞めた盟友の麻生久も友愛会本部で活動を始め、二人の加入もあって、同会が近代的労働組合への脱皮が図られた功績は大きい。ただ、後に民社党初代委員長になる西尾末広氏が友愛会加入前、「友愛会は労働者でもない者を会長にして指図されている」と批判したように、当時は「知識階級排撃」が叫ばれ始めた時期でもあり、労働運動内部に分断・亀裂を生む火種を持ちこむかっこうにもなった。

 そして、この時期、大杉栄氏らのアナーキズム(無政府主義)に代表される急進主義が台頭。「革命近し」との幻想が労働運動の世界を徘徊し始めてもいた。そこで、棚橋氏は1921年1月号の機関誌『労働』に主張「労働組合へ帰れ」を発表。急進主義の跋扈しはじめた労働界を戒め、労働者の団結を訴えている。おおむね、こんな内容だ。

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