西山良太郎(にしやま・りょうたろう) 朝日新聞論説委員
1984年朝日新聞社入社。西部(福岡)、大阪、東京の各本社でスポーツを担当。大相撲やプロ野球、ラグビーなどのほか、夏冬の五輪を取材してきた。現在はスポーツの社説を中心に執筆。高校では野球部、大学時代はラグビー部員。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
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ラグビーのW杯は1987年に始まった。サッカーは1930年にスタートしているから、遅れること57年。なぜなのか?
背景に、サッカーへのライバル意識がある。
スポーツとしての源流は、どちらも中世のヨーロッパ各地で行われていた「原始的なフットボール」だ。
19世紀の英国のパブリッククールでは、生徒たちが、それぞれの学校で独自にルールを作り、楽しんでいた。
英国内の交通網が整備されて学校同士の対校戦が広がり、ルールを統一しようという動きが起きた。1863年に開かれた会議で「手を使うことを認めるか、制限するか」といったいくつかの原則で二つのグループが対立した。その時、「認める派」が離脱。残った「制限する派」のルールが「サッカー」となってゆく。8年後には、複数の参加チームが一発勝負で王者を決めていくノックダウン方式の大会を創設し、成功を収めた。選手が金銭を受け取ることも認め、サッカーは競技として世界へ広まっていった。
一方、「手を使うのを認める派」は1871年、ラグビー協会をつくった。ラグビーという呼び名は、「球を持って走ることを認めるルール」を作ったパブリックスクールの名前にちなむ。
それからのラグビーは、サッカーに対抗するように、異なる道を歩む。
象徴的なのは「アマチュアリズム」だ。プレーすることで金銭を受け取るべきではないという考えが、長く信奉された。そこには、試合はお互いが鍛えた力を競い合えば十分という考え方も含まれた。これが世界一を争う場を持たない理由になっていた。
それでも、北半球ではイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの英国4協会にフランスを加えた「5カ国対抗」があり、ホーム・アンド・アウェー方式で毎年行われる試合は、広く関心を集めた(この試合は、後にイタリアが加わり、現在でも続いている)。
だが、実力で「5カ国」と肩を並べる、南半球のニュージーランドとオーストラリアには不満があった。自分たちも存分に力を示す国際的な機会が欲しい。そう考えた両国が強く求めたのが、W杯の創設だった。
ラグビーも、サッカーと同様に、多数の参加国が1カ所に集まって競う大会が開かれるようになった。
では、その中で、日本ラグビーはどのくらい「強い」のか。
「確実に力があがっていることは間違いない」
日本ラグビー協会の福島弦さんは、そう言って、世界ランクの変遷を並べた資料を見せてくれた。「BEYOND2019戦略室長」として国際戦略を担う立場だ。
現在は105協会がそのランクに名を連ねている。
第5回大会があった03年、日本の世界ランクは20位だった。それが昨年は11位だ。W杯で3勝をあげ、過去最高だった15年の10位には及ばないものの、3年連続で11位を守っている。
ラグビーは伝統国の強さがはっきりしているスポーツだ。世界一を争うW杯が始まったことで、それはさらに鮮明になった。ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド、フランスの8協会が上位を占める構造は、おおむね変わらない。
「日本は15年間で九つランクを上げた。(トップ8の)背中が見えるところまできた。ここからの壁は高いけれど、だからこそ、世界と日本の関係を見すえながら、次の戦略が重要になる」と福島さんは言う。
その「戦略」の骨格の一つが、W杯の開催である。
日本協会が初めて招致を公の場で発言したのは03年1月のことだ。
この年、日本ラグビーは大きく変わろうとしていた。それまで三つに分かれていた地域リーグを再編して国内を統一する「トップリーグ」の創設が秋に控えていたのだ。トップリーグは、国内最高峰の場となる。それを機会にラグビーの将来像を考えようというフォーラムが開かれ、基調講演の中で言及されたのが、W招致だった。
当時の真下昇専務理事がこう話した。
「企業スポーツは今、曲がり角です。トップリーグを成功させ、他の競技団体の参考となる結果を残したい」「私たちにはいくつか夢がある。(その一つである)W杯を日本で開催できないか」
会場に静かなどよめきが広がった記憶がある。
この発言は国内のサッカーを意識したものだった。サッカーは1993年に初のプロリーグとして「Jリーグ」をスタートさせ、02年には日韓共催のW杯を成功させた。サッカーファンを爆発的に増やし、一つのスポーツ文化を打ち立てる大きな基礎になった。
一方、その頃のラグビー界は、日本選手権でそれぞれ7連覇を達成した新日鉄釜石と神戸製鋼がリードしたブームがしぼんでいた。社会人チームは三つの地域リーグに分かれて所属しているため、強豪同士が競い合う試合はごく限られていた。人気の高い大学チームも、実力では社会人との差が大きくなっていた。少子化もあって競技人口が減少する危機感も広がっていた。
こうした閉塞感を打ち破ることを狙ったのが、トップリーグの創設であり、W杯の招致だった。