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裁判員制度10年間の総括と残された問題点(上)

瀬木比呂志 明治大法科大学院教授

拡大量刑などを決める評議を体験する模擬裁判の参加者ら。実際の裁判では非公開=2019年5月21日、岡山市

 編集部から、裁判員制度10年を機会にその総括的な分析をしてほしいとの依頼があったので、この機会にまとめておきたい。

 第一に、現行裁判員制度に対する僕自身の基本的な視点および疑問について、過去の書物(『絶望の裁判所』、『ニッポンの裁判』〔各、講談社現代新書〕、瀬木比呂志、清水潔『裁判所の正体』〔新潮社〕)の内容等を要約してまとめた後、第二に、裁判員制度10年をめぐる報道の内容、あり方についても、気になる部分が多かったので、批評、分析し、第三に、報道等がふれていない問題点についても記しておきたい。

第一の目的は刑事裁判制度の改善に置くべき

 まず、国民、市民の司法参加という事柄自体の意味は、僕も否定しない。

 しかし、市民の司法参加の制度なのだから当然支持すべきだとか、問題があってもそれはとりあえず無視・軽視してもよい、などという態度で臨み、あるいはそれを暗黙の前提とするのであれば、問題だ。

 刑事裁判にかかわる制度なのだから、その第一の目的は、刑事裁判制度の改善に置くべきだというのが、僕の基本的視点である。

 関連して、裁判員制度の目的につき、「①刑事裁判に市民感覚を反映することと併せ、②司法をより身近にする」(朝日新聞5月9日。以下朝日記事は日付のみで示す。なお、符号は筆者による)といわれていることについては、①はともかく、②については、後記のような事柄と併せ、一定の疑問も感じる。

 裁判というのはきわめて厳粛なものであり、裁判員は、陪審員同様に、それなりの覚悟をもってこれに臨むべきだ。これは、間違いなく世界標準の考え方だと思う。だから、司法をより身近にし、広い意味での法教育を行うための「手段」としてこうした重い制度を「利用」するというのであれば、そのような考え方には疑問を感じる。

 なお、この記事に記してゆく僕の考え方について、特別に先鋭な批判だと考える人がいるとしたら、おそらく、それは正しくない。

 僕は、自由主義者ではある(ことに、個人の内面の自由と表現の自由には重きを置く)が、その考え方には、正統的な保守主義の部分も含まれているし、右派、左派を問わず、その中のイデオロギー的な考え方とは一線を画してもいる(『裁判官・学者の哲学と意見』〔現代書館〕第Ⅱ章)。

 また、僕が抱いてきたような疑問は、ベテラン法律家の間にかなり広くみられるものであって、むしろ、その中の正統的な自由主義者、保守主義者の共通意見に近い部分も多い。ただ、一般的には、「市民の司法参加」を錦の御旗のごとく掲げる人々の意見しか大きく報道されることがない、というだけなのである。

 一例を挙げれば、僕の書物とは相互に無関係に書かれた今村核(弁護士)『冤罪と裁判』〔講談社現代新書〕においても、裁判員制度については、おおむね同方向の記述がみられる。


筆者

瀬木比呂志

瀬木比呂志(せぎ・ひろし) 明治大法科大学院教授

1954年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。裁判官として東京地裁、最高裁などに勤務、アメリカ留学。並行して研究、執筆や学会報告を行う。2012年から現職。専攻は民事訴訟法。著書に『絶望の裁判所』『リベラルアーツの学び方』『民事訴訟の本質と諸相』など多数。15年、著書『ニッポンの裁判』で第2回城山三郎賞を受賞。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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