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裁判員制度10年間の総括と残された問題点(下)

瀬木比呂志 明治大法科大学院教授

「司法が身近になった」などと語る裁判員経験者ら=2019年3月19日、東京都千代田区霞が関1丁目

裁判員制度10年間の総括と残された問題点(上)

 次に、朝日新聞記事を検討しながら、その問題点を中心に指摘しておきたい。

現在の「裁判員制度は原則正しい」という前提でよいのか

 なお、以下のような報道は朝日に限ったことではなく、大手メディアは多くがおおむね似通った論調なのであり、メディアや記者の姿勢一般の問題なのである。

 もっとも、たとえば東海テレビは僕のインタビューにも相当のまとまった時間を割いた放映を行っており(5月21日)、記者たちと話した経験からしても、実際には、その中にも制度の少なくとも一部への強い疑問を感じている人々は少なくないのではないかというのが、僕の印象だ。

 公平にみれば、朝日の記事には、利用者や弁護士に対する個々のインタビューなど、問題を掘り下げようとする姿勢がうかがわれる部分も存在する。しかし、「ともかく裁判員制度は全体としてみれば原則正しいのであり、したがって擁護推進すべきである」という前提に立ってそこから立論を始めるために、制度とその問題をリアリズムでとらえる視点が欠落してしまっているのだ。

辞退率増加の第一の原因は制度への疑問では?

 ①「辞退率の増加については勤務先の支援体制の不備が第一の原因」と読めるような記述(5月9日)は、率直にいって誤導ではないかと思う。

 辞退率が当初の53%から直近の67%まで「14%も増えている」ことについては、おそらく、制度自体に対する人々の疑問・疑念、また関心の低下が、第一の原因であろう。

 確かに企業の制度不備もあるかもしれないが、もしもそれが第一原因というなら、「10年間の間に企業の制度不備、非協力が徐々に高まってきた」という因果関係が必要なはずだ。

 しかし、もちろん、そんなことは考えにくい。

 また、こうした問題は当然当初から予想できたはずなのだから、事前に制度的な手を打っておくべき事柄でもあった。

 「権力側、制度の側、お役人の側」のいいわけ(という部分もかなり大きい)と解するのが相当であるような説明をメディアがそのまま掲載するのは、よろしくない。

裁判員の負担の問題

 ②裁判員の負担が重い(5月12日)というのは事実であろう。しかし、それについては、先のとおり、一定の重罪事件すべてについて裁判員裁判を行うことにしている不合理の結果という側面も大きいだろう。また、無罪が主張される事件では、被告人側に十分に争う機会が与えられるべきことも当然だ。

 もしも、どうしても負担が重いというなら、裁判員制度それ自体の是非を考え直す必要もあると思う。

 「まず適正な裁判、刑事裁判制度の改善という要請があり、そのための一つの方法として裁判員制度があるはずであって、その逆ではない」からだ。本末転倒の議論になってきているなら、制度それ自体の是非をも含めて考えるべきだ。

 僕自身は、日本の裁判官制度の改革(本格的な法曹一元制度〔部分的法曹一元についても、たとえば、オランダでは8割、ベルギーでは5割について実施されており、本格的なものといえる〕、あるいは、裁判官の任用、異動、昇進等を独立性、客観性の高い委員会にゆだねる制度〔たとえばベルギーで採用〕)によって刑事裁判の適正化も相当に図られるのだから、そうした改革を進めることがより抜本的ではないかと考える。その上で、適切な市民の司法参加の制度を考えればよい(その場合には、より負担の軽い意見聴取中心の制度等も考えられるだろう)。

 この点、5月16日記事には、「最高裁が、評議や公判前整理手続のあり方についての批判を含んだ報告書を出した」とも読める記述があるが、ここは具体的に知りたいところだ。僕にも十分に意味が取れないのだから、ごく普通の読者には、この記事だけでは、何のことかほとんどわからないだろう。

これについても、官の見解を、こういう未消化なかたちで、しかも一面で出すことへの疑問は、提示しておきたい。

総花的な社説の書き方に疑問

 ③5月20日社説について。

 裁判員制度の成果として、刑事司法制度全般の改善が進んだことが挙げられている。それが全くの誤りだとまではいわないが、日本の刑事司法制度の問題それ自体は、はるか昔からずっといわれ続けてきていることであり、いずれにせよ、それが早晩改善されてゆかなければならないのは、あまりにも当然のことであった。そのような当然なされるべきであった改善を裁判員制度の成果としてひとくくりにしてしまうような論調には、疑問がある。少なくとも不正確であろう。

 また、ここでも、「評議や公判前整理手続のあり方についての批判」めいた記述があるが、こうしたデリケートな事柄は、論じるなら、きちんとした根拠を示し、法律家たちの意見も実名で掲記した上で、行うべきだと思う。

 前記『裁判官・学者の哲学と意見』第Ⅱ章にも記したことだが、ああでもない、こうでもないのような総花的な社説の書き方は、もうそろそろ考え直したほうがよくはないか。一連の記事の趣旨やそこで出ていた意見を、あれもこれもと、しかも根拠も不明確なまま並列的に並べるのではなく、まずは、制度に関する、1つの一貫したパースペクティブ、定点としての視点をこそ、示すべきではないのか。

 もしも、裁判員制度のおおむね現在のようなかたちでの維持に刑事司法制度の適正化という目的以上に高い固有の価値や意味を認めるというのであれば、それも一つの考え方だろう。しかし、それなら、その旨を明示し、かつ、なぜそう考えられるのかの根拠をはっきりと示すべきではないかと考える。

批判的な意見は出てこないコメント

 ④各種コメントについて。

 5月9日記事には、裁判員制度といえば何かと登場される教授・弁護士のコメントがあるが、そのコメントに限らずその方の活動全体を通じてみるなら、基本的に制度に乗っかっての著作や発言の多い、制度のスポークスマンともいうべき立場の方のようにも感じられるところだ。

 はたして、

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