2019年06月14日
そこにフェイクニュースがばらまかれ、瞬時に拡散し、疑いなく受け取る時代にもなった。前記の文研の調査では、ニュースメディアとしてLINEを最も多く使う人は、ニュースを受動的に受け取っており、またフェイクニュースの認知も低いという結果が出ている。
ニュースの一次情報は、多くが伝統的な報道機関の取材によるものである。その記事を採算性度外視でネットメディア企業に売ってきたことによって、報道機関は自らの採算性を苦しめつつ、今やニュースメディアとして十分認識してもらえない世代を自ら創り出し、素人の作るフェイクニュースと混在してしまった。
拙稿「報道事業の「収益のヘルシーさ」が本質」(WEBRONZA2010年10月4日)や「「報道編集」の重要性を国民に訴える活動が先だ」(同2015年12月24日)等で再三述べてきたとおり、伝統的な報道機関は、事実確認のためにヘリコプターをも飛ばして「ウラを取り」、その時々に国民が知るべき重要性の序列を前提に「取捨選択」し、文章と映像を「編集」するという高度な知的作業をこなせる人材を恒常的に抱え、鍛え、使う、というコストを負担している。それは広告収入の儲かる仕事だから当然かけるべきコストなのではなく、公共の財産として社会全体として負担されるべき性質の事柄であることを、市民も報道機関もネットメディアも忘れてしまっている。
それではいけない、フェイクニュース等の拡散は抑制されなければならず、そのためには確証の取れた情報のみの発信、誤情報発信者の可視化(取材)、誤情報打ち消し報道、が必要である旨、伝統的な報道機関の役割を説く説もある(文研『放送研究と調査』2018.11号「流言・デマ・フェイクニュースとマスメディアの打ち消し報道」より)。それは報道機関の防衛策、ブランディング策として一理はあると考える。しかしこれだけでは足りない。
正しい報道記事にかかっているコストのみならず、誤情報打ち消しのための取材と編集も含めて、「ウラ取り」のために報道機関がかけるコスト=能力ある記者の人件費、を無制限に負担し、フェイクニュース拡散者の社会的肩代わりを実質的にしていることが問題だ。これを伝統的な報道機関のプライドと美談にする時代は、もう終わったのではないか。冒頭に扱った20代の若者とは、多くがすでに社会の中で責任をもって働いている人たちである。彼らが日々のニュースの出所も確認せず、本当かウソかも確認せず、情報を丸呑みして検索やリンクやフォローに右往左往する状態は、表現が難しいが「健康的な社会とは言えず」「無意味で無駄なコストの多い社会」、であろう。
報道機関の社会的価値、というと学術的な定義を含めて様々な論点があろうが、ここではシンプルに、事実確認(ウラ取り)、慎重な選定、吟味した表現、情報発信、それらに一定の競争性と多様性が保たれていること、という整理をしてみる。それらがかつては報道機関として当然持っているべきもので、
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