メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

転向の時代 「若さがマルクス主義をとらえたが」

日本会議と共闘する労働戦線は、どう作られてきたか <5>

藤生 明 朝日新聞編集委員

 大河内一男・元東大総長(社会政策)の学友で、獄中で転向。もともと学究肌だったこともあって、戦後は拓殖大学教授、創価大学教授。民主社会主義研究会(民社研)理事になって、反共反ソ陣営の最前線に立った。竪山氏は共著『東京帝大新人会の記録』で、大学入学直後に参加した労組活動家との学習会について回想している。

 労働者から見れば、大学生はブルジョアの子弟であり、自然と階級的に一線を画していた。本当に仲間にしてもらうには、献身的に活動し信頼されるのを待つ必要があった。
 一般学生とは違っているのだと意識しながらも、労働者を搾取している支配階級の子弟であるという一種の劣等感や罪悪感に似たものがあり、謙虚に働いた。

 竪山利忠氏の実弟、竪山利文氏は兄と同じ旧制七高から九州大に進学。東芝勤務などをへて中立労連議長になった。回顧録『遠交近攻』に、兄の共産党入りを知った実父の怒りを記した場面がある。「武士の血が流れている父は無言のまま日本刀を抜いて斬り殺す勢いだった」

拡大治安維持法に反対して、労働団体などがデモ行進した=1925年2月、東京・芝
 竪山利忠氏の東大入学は1926年、その前年、治安維持法が制定された。「国体ヲ変革シ、及ビ私有財産制度ヲ否認セントスル」結社や運動を禁止する——。28年には、最高刑は死刑へと改正された。

 高校時代で革命を暗に意味する鶴鳴会(かくめいかい)で活動し、入るべくして入った新人会で、竪山氏が最初に駆け付けた労使紛争は、静岡県浜松市の日本楽器大争議だった。「右翼に何度も争議団本部を襲撃された。無警察状態で、自分の身は自分で守るしかなかった」と竪山氏は回想している。

新人会に対抗した右翼結社

 大争議を指導したのは、日本労働総同盟(総同盟=旧友愛会)から分かれた共産系労組「日本労働組合評議会」(評議会)だった。評議会の実質的なリーダーは、セルロイド工場の職工出身で、新人会にオルグされて労働運動へ入った渡辺政之輔氏。争議を指導した南喜一氏は、関東大震災時の亀戸事件で弟が軍隊に殺された怒りから運動家となったゴム工場経営者だった。

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

藤生 明

藤生 明(ふじう・あきら) 朝日新聞編集委員

1967年生まれ。91年入社。長崎、筑豊、小倉、博多に勤務。2001年、雑誌AERA。12年、新聞に戻り大阪、東京両社会部。17年から右派・保守国民運動を担当する編集委員。著書に『ドキュメント日本会議』『徹底検証神社本庁』(ともにちくま新書)