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国家は高額納税者の特権を剝奪するために存在する

「税金泥棒」言説を日本近代史の文脈から解く

住友陽文 大阪府立大学教員

「年金返せ」と訴えたデモ=2019年6月16日、東京
         
 ある実業家による「税金泥棒」という発言が今年の6月に話題を呼んだ。国家から給付される年金の額よりも納めた税金の額の方が少ない人たちで、デモをして「正当な給付を」と物申す人たちは「税金泥棒」だそうだ。

 国家からのサーヴィスの額と納税額とが一致しないのは当たり前で、近代の租税制度とはそういうものだとしか言いようがない。では、近代において、サーヴィスの水準と納税額との個々の照応関係が成り立たないのが当たり前なのに、なぜそんな非常識なことを叫ぶ人が現れるのだろうか。これを日本近代史の文脈のなかに探りたいと思う。

ヨコの関係でばかり理解される人権意識

 ところで、「人権を大切に」という趣旨のことが書いてある幟が公道沿いに立てられているのを見かけることがあるだろう。役所が立てたものだ。人権とは、その本質からしてまずは公権力に対抗するものであったはずが、不思議なことにその公権力が市民に向かって「人権を大切に」と呼びかける。むしろ、市民であるわれわれが公権力に向かって「人権を侵害するなよ」と呼びかけるべきである。

 この国では人権とは、権力が守るものだというより、私人同士で互いに守りあうものだというイメージが強いように思える。人権は市民相互の関係で守ったり守られたりするもので、そこに権力や行政や法が関与する事態をあまり想定していないようにも思えるのだ。われわれは人権をヨコの関係の問題とばかり理解をして、肝腎のタテの関係、すなわち国家権力と市民という関係の問題として認識されないのである。

 このような人権意識は、「税金泥棒」言説と実は関係があるのではないか。

 近代日本では、西欧のように啓蒙思想を武器に市民が封建的な中間団体と対決し、市民がそれら中間団体から解放されるために樹立した主権国家と契約するという歴史を持たなかった。明治維新の過程で国家は、確かに身分制を廃止して封建的中間団体(近世身分制下では藩、村や町〈ちょう〉、仲間組織等)を解体し、それにともなってさまざまな身分特権も否定した(武士の特権から被差別身分の特権まで)。このように明治国家は、契約国家を招来する啓蒙思想に対してその普及の予防権力として成立した。

 興味深いことに、解体された中間団体である藩の下級武士(旧特権者)たちが海外から啓蒙思想を熱心に借用し、自分たちこそが人民を代表する者だと宣言して明治政府と対決した。自由民権運動である。地租改正で人民の私的所有権が認められたあと、板垣退助らが政府に請願したのが「民撰議院設立建白書」(1874年)であった。そこでは、納税者にこそ参政権があると述べられていた。士族民権が代弁した権利の持ち主は土地と資産に社会的地位を兼ね備えていた者たちであった。だから豪農がその運動に呼応して参画してくるのである。他方で明治政府はこれらの運動と対決するために、納税の事実が権利主張につながらないように啓蒙思想を否定しようとした。

 近世身分制下では、それぞれの身分特権と役負担とは照応していた。明治国家は大日本帝国憲法を1889年に発布して社会経済的に優位にあった者の私的所有権などの自由を保障し、高額納税者には参政権も与えた。社会経済的優位者に特権を与えたのである。ただしその権利は決して「天然所持する所のもの」(大日本帝国憲法制定時の文部大臣森有礼の言葉)であるとか(自然権)、納税や兵役の義務と交換条件で与えたものとはされず、天皇による恩恵であるとされた。ここが、近世国家と近代国家の「租税」の位置づけ方の違いであった。

日露戦争の「勝利」を祝い、東郷平八郎元帥の凱旋を迎える人々=1905年10月

特権者にとっては不合理な近代租税制度

 このように啓蒙思想と契約国家とを否定する代わりに明治政府がめざしたのが、天皇の名において国土と人民を統治するタイプの主権国家であった。

 国土開発を国家主導で行ない、軍拡競争にも勝つためには、経済的な特権者たちからの増税案に対する同意を得なければならなかったが、それは

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