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エスカレーターの片側空けは前世紀の遺物である

「乗り方改革」で妖怪「いそがし」を退治しよう

斗鬼正一 江戸川大学名誉教授

「挙国一致」で「猛烈ダッシュ」「24時間戦えますか」

 1900年、世紀末のパリで第5回万国博覧会、第2回オリンピック大会が開催されました。その際初めて世界に向けてお披露目されたのがエスカレーターです。

 その頃のエスカレーターは、博覧会と同様に、世界の風景、物産を眺め渡す仕掛けである遊園地やデパートに設置され、人々は立っているだけで重力に抗して上れるラクチンさ、世界のパノラマを高みから眺め渡す視線の贅沢さに感嘆したのです。

拡大1930年に撮影された大阪・三越百貨店のエスカレーター。1人分の幅しかなく、当然みな歩かずに立って乗っていた
 日本での初登場も1914年、上野公園で開催された東京大正博覧会ですし、第2号も同年に「デパートメントストア宣言」で初の百貨店となった三越呉服店、現在の日本橋三越本店ですから、エスカレーターはやはり楽々上り、高みから眺め渡す楽しさを提供する道具だったのです。

 さらには欧米でも日本でも駅に設置され、やはり楽に上る道具として使われていたのですが、1944年頃ロンドンの地下鉄で急ぐ人を優先するために右に立つ片側空けが呼びかけられました。これが欧米で今に続く右立ち左空けのきっかけなのですが、1944年頃といえば第二次世界大戦中。人も物も精神も、すべてを戦争遂行に動員する総力戦で、エスカレーターも輸送効率向上という国家目標の下「一糸乱れず」、文字通りの「右へ倣え」とされたのです。つまり、片側空けは上から与えられたマナーであり、楽に、楽しく上る道具のはずのエスカレーターが、急ぐための道具に変わってしまった背景には、「挙国一致」で効率最優先という戦時の国家目標があったのです。

拡大阪急梅田駅のエスカレーター。両側に並んで立っているように見えるが、この時点で「左側を空けるように」というよびかけも行われていた=1967年10月
 日本では、初の片側空けは大阪の京阪神急行電鉄(現阪急電鉄)梅田駅での呼びかけによるものでした。
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筆者

斗鬼正一

斗鬼正一(とき・まさかず) 江戸川大学名誉教授

1950年鎌倉生まれ。文化人類学者。専門は都市人類学、地域研究。著書に『目からウロコの文化人類学入門―人間探検ガイドブック』(ミネルヴァ書房)、『頭が良くなる文化人類学 「人・社会・自分」──人類最大の謎を探検する』(光文社新書)など。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです