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虐待事件を繰り返さないために私たちができること

子どもへの暴力防止プログラムのワークショップを学校に提供してきたからわかること

阿部真紀 認定NPO法人エンパワメントかながわ理事長

 千葉県野田市の小学4年、栗原心愛(みあ)さん(当時10)が虐待死したとされる事件が明らかになってから、7カ月が過ぎました。毎年のように各地で明らかになる親による子どもへの虐待事件。繰り返さないためにはどうしたらいいのか、認定NPO法人エンパワメントかながわの阿部真紀理事長に寄稿してもらいました。(「論座」編集部)

私たちに何ができるのか?

 「せんせい、なんとかなりませんか」

 心愛さんは、SOSを発信していた。自分が暴力を受けていると、大人に助けを求める力があった。にもかかわらず、大人は適切な対応を取れなかった。こんなに悔しいことはない。

 だからこそ、この事件によって、児童福祉法や児童相談所の人員配置など、政府はあわただしく見直しを進めてきている。事件を繰り返さないためにこうした制度の見直しは、まだまだいくつも必要だ。しかし、政府や自治体だけに任せておけばよいのだろうか?

 地域市民である私たちに何ができるのかを考えてみたい。

虐待を防ぐにはCAPの授業を受ける子どもたち=エンパワメントかながわ提供

子どもの力を信じ、子どもの話に耳を傾ける大人を増やそう

 心愛さんは、大人に助けを求める力を持っていた。それは、彼女がもともと持っていた力であり、沖縄で暮らしていた時に祖母や母、友人たちから培われたのではないか。心愛さんは、自分が暴力を受けていいはずがないこと、つまり自分が生まれながらに持つ権利を知っていたのだ。

 児童虐待防止法では、学校の教職員らには、児童虐待の早期発見と通告が義務付けられている。2000年に制定、施行された際、通告者とは「児童虐待を受けた児童を発見した者」とされていたが、2004年に「児童虐待を受けたと思われる児童を発見した者」と、少しでも疑った場合に通告の義務が発生すると改正された。しかし、今回の事件ではそれが守られなかったことになる。

 筆者は、CAP(子どもへの暴力防止)プログラムの活動を神奈川県内中心に行ってきた。

 CAPでは、子どもと大人(保護者や教職員)の双方に、ワークショップを提供することが決められている。子どもたちには、安心して自信をもって自由に生きる権利があることを伝え、暴力が向かってきたときに何ができるかを、寸劇を交えながら考えるワークショップ、教職員や保護者には、子どもの話を受け止め、子どもが暴力にあわないためにできることを考えるワークショップを提供する。

 2004年以降は、改正された児童虐待防止法の写しを常に持ち、主に小学校での活動を続けてきた。

 教職員向けの研修では、「虐待の早期発見と対応」と銘打ち、必ずこの条文を紹介してきた。虐待かどうかを判断するのは、学校の仕事ではないこと。虐待かなと疑ったら、その時点で通告の義務が発生するため、学校長に伝え、学校長から通告してほしいことを、参加型ワークショップを通じて伝えてきた。

虐待の被害について語り始める子どもたち

 CAPでは、クラス内でのワークショップを実施した後、必ずトークタイムという個別対応する時間を設ける。トークタイムで、CAPのスタッフに対し、子どもたちが今までは誰にも話すことができなかった家庭での暴力、つまり虐待の被害について語り始めることがある。

 「もし、知らない人に声をかけられて、お家まで逃げて帰っても、お家に誰もいなかったらどうしたらいいの?」

 1年生の女子がスタッフに漠然とした不安を話しているうちに、家庭の中に保護者が不在であること、夜遅くまでひとりで待たされていること、つまりネグレクトの状況が発覚する。

虐待を防ぐにはCAPを受けた子どもの感想=エンパワメントかながわ提供

 ワークショップの冒頭で「安心なんて、どこにもない」と大きな声で反応した4年生の男子。日頃は周りの子にちょっかいを出してはトラブルを起こす困った子だと先生から聞いていたが、その子は毎日のように父親が母親に暴力を振るう面前DV(心理的虐待)の状況をトークタイムで語りだす。

 トークタイムが始まると同時に、スタッフに駆け寄り、「今ね、劇でやったこと、私もあるの」と語り始める3年生の女子。「さっきの親戚のお兄さんがキスをした話?」と聞き返すと、 「そう、でも親戚でなくて、本当のお兄さんなんだけど、嫌な触り方をしてきて誰にも言っちゃダメだと言われてる」と性虐待を告白した。

 今まで誰にも話してこなかった虐待の被害を、たった60分間のワークショップを提供したCAPスタッフに語り始める。こんなことが年に何回かある。

 CAPのスタッフは、「話してくれてありがとう。あなたは決して悪くない」と伝え、これまでその子が抱えてきた気持ちを聴き続ける。しかし、それが虐待である以上、気持ちを聴いて終わりにするわけにはいかない。そのことを他の大人に伝える必要があることを伝え、学校側に助けを求めることに子どもから承諾を取る。

 「あなたの権利が奪われているということだね。あなたの安心・自信・自由の権利を守るために、他の大人にも助けてもらってほしい」

虐待を防ぐにはCAPを受けた子どもの感想=エンパワメントかながわ提供

 時として「絶対に他の人には言わないで」と子どもに言われることがある。そんな時は、「どうして、他の人に話しては困るのか?」を尋ねることにしている。

 「お母さんが大変なことになる」「どこかに連れていかれてしまう」「家族が離れ離れになってしまう」など、子どもの不安を聞き取ることで家庭の中の様子が見えてくる。今後の介入のヒントを得ることもできる。

保護者に連絡せずに児相に通告するのはハードルがあると考える教職員も

 私たちは、子どもの承諾を得て、子どもの選んだ先生、さらに校長先生に話をすることになる。

 活動を始めた当初はこんな校長先生に出会うことが多かった。

 「わかりました。児童相談所は信用できませんからね。学校としてこの子を守ります」

 いやいや、校長先生。児童虐待防止法はこう書いてあるのです。学校の中に留めるのではなく、児童相談所と連携してください。

 校長が仕方なさそうに「わかりました」とおっしゃるまで1時間以上校長室で粘った記憶がいくつもよみがえる。

 先生方の子どもを守ろうとする熱意には、常に心を動かされる。何か事が発覚すると、その場でチームが組まれ、解決のための方策が講じられる。保護者にすぐに連絡することは当たり前に身についている。だからこそ、保護者に連絡せず、通告するというのはハードルがあると想像する。

 学校が安心して通告できる体制を作っていくためには、資料やマニュアルを配布するだけでなく、具体的できめ細かい参加型の研修を各学校で継続して実施していくことが必要である。

虐待を防ぐにはCAPの授業をするスタッフ=エンパワメントかながわ提供

 毎年CAPを届けていた小学校で、校長先生からこんなエピソードを聞いたことがある。

 「昨年、CAPを受けた後で、4年生の女子が1人転校していったんです」

 その子は、CAPを受けた後、「うちって、安心・自信・自由がないよ」と母親に話したという。母親は、DVを受けていることを感じながらも我慢をしていた。しかし、CAPを受けた子どもに気づかされ、夫と別れることを決意。そのことを校長先生に話し、転校していったのだという。

通告は支援のスタート

 子どもを守る学校や地域が、今ある法律にのっとり、専門機関を活用するために必要なことは、信頼関係に他ならない。

 通告したら終わりでは決してなく、通告は支援の始まりだからである。

 支援を必要としている子どもと親に、適切な支援を行うためには長い時間を要する。困っている子どもと親がもともと持って生まれた力を取り戻すまで、学校と地域と専門機関が力を引き出し合い、息の長い付き合いをする必要がある。本音をぶつけ合う中で互いにできることを見つけ、その実行を繰り返すためには信頼関係が不可欠である。

 忘れてほしくないのは、当事者である子どもの人権だ。

 子どもの気持ち、子どもの意思を尊重することである。問題が顕在化し、学校や家庭、専門機関が動き始めると、「こういう時にはこうするしかない」「~しなければならない」と大人の都合で、次々と処遇が決められ、子どもの存在が置いてきぼりになりがちだ。

 どんな時も、子どもの人権を尊重し、子どもの力を信じ、子どもの気持ちに耳を傾け寄り添うこと、それが私たちにできることである。

虐待を防ぐには子どもたちにCAPの授業をする阿部さん=エンパワメントかながわ提供

「他人ごとではなく、自分ごと」と捉えることから

 虐待事件をワイドショーが取り上げる時、おどろおどろしいBGMが流れる。制作側には意図がないのかもしれないが、加害者の生育歴、虐待のせいさんな様子を描きだす際流れるBGMは、視聴者の不安を掻き立てる。不安を掻き立てると同時に、こんなに悲惨なこと、私たちとは別の世界で起きている「他人ごと」だというメッセージを伝えているように思える。

 近隣住民へのインタビューでは、「怖いですね」「信じられません」という声が取り上げられる。事件は自分とは関係ないところに置いておきたい、という心理がどうしてもあるのだろう。

 しかし、虐待は、自分たちのすぐ隣にある。もしかしたら、自分の家でも起きているという「自分ごと」に変えていくことがこうした事件を繰り返さないために、何より必要だ。

 虐待という文字は、見るからにむごたらしいイメージを想像させる漢字だ。

 調べてみると、「虐」という字は、虎が爪を立てている形を表し、「しいたげる(残酷に扱う)、むごくきびしい」という意味があるという。児童虐待という文字が、日本語では親が子どもを「残酷に扱う」という意味があるとすれば、「いやいや、うちはそんなことしていません」と思うだろう。

 一方、児童虐待という言葉を英訳すると、child abuseとなる。abuseは、ab-useと分解される。abは「離れている」という接頭辞で、use正しく使うこと。つまり誤用、あるいは乱用という意味の単語である。

 英語では、子どもに対して圧倒的に大きな力を持つ「大人(親や先生、子どもの周りのすべての大人)」がその力を乱用するときにchild-abuseという言葉が使われる。

 日々の家事や仕事に追われる中で、ついつい子どもに「何やっているの! 早くしなさい」など感情をぶつけることもchild abuseになると考えるなら、多くの人に経験があるはずだ。

 虐待という文字を見ると、自分とは関係ないと思う人も多いかもしれないが、child-abuse、つまり、子どもに対して自分の力を乱用することだとしたら、したことのない大人はほとんどいないのではないだろうか。

 自分の隣で起きているかもしれない身近な問題として捉え、地域の人間として困っている子どもを守るためにできることから考えていきたい。

 そのために、自分もされてきたかもしれない、自分もしてきたかもしれない「自分ごと」として捉えることを提案する。

 児童虐待は、家庭内でなんとかしなくてはならない個人の問題ではなく、地域で取り組むべき社会の問題であるからだ。

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