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「星野君の二塁打」から考える学校体育の息苦しさ

抑圧と屈従の中で競争させられ、「気持ちよさ」を排除させられていませんか?

吉岡友治 著述家

星野君の二塁打イメージ写真 Andrey_Popov/shutterstock.com

 思えば、私は、かれこれ25年同じ運動クラブに属して、毎週一回は走ったり泳いだりしている。7,8年前までは、週二回行っていたときもある。だから、人から「意外にスポーツマンなんですね」と言われることもある。そんなときは「いや、全然。運動は大っ嫌いなんですよ」と冷たく返すことにしている。

学校体育への恨み

 こんな風に「自信を持って」言えるのは、学校の体育にずっと悩まされてきたからだ。身長は高いが、早生まれなので、小学校時代は身体の統御が未発達。走ると転びやすいし、マット運動も出来ない。不器用なので泳ぎも不得意。そういう「ハンディ」を背負いながら、同級生と競争させられるのだからたまらない。徒競走ではたいてい負ける。とくにリレーだと途中で何人もの人に抜かされる。すると「お前が悪い!」と言われている……ような気がする。一緒のグループを組むのさえ嫌がられる。

 体育の教師も嫌いだった。理屈が通じない。美的感覚がない。工夫がない。同じことを何度もやらせる。根性で迫る。中学校ではテニス部に入ったことで、大変な思いをした。まず、一年生はラケットを持たせない。延々とボール拾いをさせる。夏の暑い日に走らせて水を飲ませない。むちゃくちゃ腹筋運動をさせる。筋肉痛で起き上がれず、一週間学校を休んだ。さらに、試合に負けると正座して反省させられる。ときには、脚の間にテニスラケットを挟み込んで。当然、脚は痺れて立てない。なのに、終わったら校庭を20週走らされる。途中何度も転ぶ。

 もちろん「こんな横暴なやり方はおかしい」と意見を言うことは許されない。コーチや顧問の命令通りに動き、そのとおりできないと叱責され軽蔑される。言われたとおり出来ないのは、すべて自分の責任か「根性がない」からだと罵倒される。権力関係を笠にきて、生徒や下級生を徹底的に虐げる。体育と運動部を思い出すと、嫌なことしか思い浮かばない。

野口君の二塁打イメージ写真 tera.ken/shutterstock.com

「苦しみ」を感じさせるシステム

 結局、学校体育は、運動の「楽しみ」より、むしろ「苦しみ」を感じさせるシステムになっている。それを象徴するのが、しばらく前に、教育界で話題になった道徳教材「星野君の二塁打」という物語だろう。甲子園出られるかどうかがかかった試合、同点で迎えた最終回、ランナー一塁で、「星野くん」はバントを命じられるが、監督の指示に反してヒッティングして二塁打を放つ。そのおかげでチームは勝利したが、翌日、監督から「チームの規則を乱したものを試合に出すわけにはいかない」と謹慎を命じられる、というストーリーだ。監督の「今井先生」はこう言って、「星野くん」に出場禁止を命じる。

 「……いいか、諸君、野球は、ただ勝てばいいのじゃないぜ。特に学生野球は、からだをつくると同時に精神をきたえるためのものだ。団体競技として共同の精神を養成するためのものだ。自分勝手なわがままは許されない。ギセイの精神のわからない人間は、社会へ出たって、社会を益することはできはしないぞ。」(吉田甲子太郎『星野君の二塁打』より)

 指導案では「とかく勝てばよいと安易に考えてしまいがちな子どもたちにとって、集団生活・集団行動において規則やきまりはなぜあるのか、なぜ必要なのかを深く考えさせることかできる資料である」と書いてある。

 何を言っているのだ、と思う。これでは、学校体育は「運動」ではない。むしろ、運動の喜びを抑圧する道徳教材になっている。「星野くん」は、打席に入る前に「こんどは、きっとあたる。なんとなく、そういう予感もしていた」と直感する。その感じに従って、打ってみると上手く行った! 直感に従ってやってみると、考えていたのとは違う結果になる。これは運動の醍醐味だろう。しかし、顧問の「今井先生」は、その直感を無視して、自分の作戦通り「バント」をさせようとし、勝利に導いた「星野くん」に「にがい顔」をしてみせ、果ては出場停止という手段まで使って処罰しようとする。この執拗さは何だろう?

 もし、それほどまでに、野球が「共同の精神を養成する」ための行為だとしたら、その精神を毀損し勝利は真の勝利に値しないはずだ。監督が主導して、大会出場を辞退させチーム一丸となって謹慎すべきだろう。それなのに、ちゃっかりと大会出場の名誉だけは得て、ずるい指導者もいたものである。

 そもそも、「星野くん」がヒットを打てそうかどうか、その調子を見抜くのも指導者としての力量だろう。その予想が外れたのだから、不明を恥じるのは監督自身であるべきだ。だが、それを組織への忠誠の問題にすり替え、自分の意に従わなかった人間をむりやり抑圧する。むごい話だと思う。

運動の本質とは何か?

 運動の本質は、本来、身体を動かす楽しさだろう。水泳でも、最初はどんなに水に入るのがおっくうでも、泳いでいる内にだんだん身体がほぐれてくる。500mを超すあたりから手を動かすのが楽になり、水と自分が一体化するように感じられる瞬間が訪れる。泳ぎ終わるときには、血液が体中を巡ってあたたかい感じがする。そうなるのが分かっているから、多少気持ちが乗らなくても泳ぎ出すことにしている。私にとって、運動とは自分の身体の状態に気づき、自分の「心地よさ」を基準にして、身体と対話することである。

 だが、体育にも運動部にも、そういう「自己への配慮」の姿勢は微塵も存在しない。あるのは、外との競争と序列付け、命令と服従、組織への忠誠と空虚な精神論に明け暮れる時間だ。対価として得るものは、屈辱感と劣等感をバネにした人間関係。そんな中でも、運動の快感を見出す人がいるのかもしれないが、私の場合は不快感が圧倒的に上回る。挙げ句の果てに、その不快感を乗り越えることが「運動」の意義として称揚される。その意味で、学校体育とは、倒錯の極み、頽廃の極みなのである。

 だから、私は、未だに「高校野球」を素直に楽しむことができない。たしかに、TVの画面に出てくる球児たちは、運動に長け、運動を楽しんでいるのかもしれない。しかし、そこに至るまでに、いったい何人の人間が「ダメな奴」として烙印を押され、顧問や先輩から罵倒され、グラウンドの整備ばかりやらされ、屈辱感を忍んできたのか、とつい想像してしまうのだ。

野口君の二塁打イメージ写真 mTaira/shutterstock.com

野口体操との出会い

 こういう体育と運動の呪縛から解放されたのは、大人になって「野口体操」と出会ってからだった。そのおかげで、それまでの運動観が根底から変えられたのだ。「野口体操」とは、東京芸大の体操教師野口三千三が創始した体操で、別名「ぶらぶら体操」とも言われる。彼は、人間の身体とは「皮の袋の中に血が入っていて、その中に内臓も骨も浮かんでいる」状態だと言う。だから、その皮袋をほぐして適切に調整すれば、より自由な運動の可能性を手にすることができるというのだ。

 だから、彼の体操は、身体を丁寧にほぐすところから始める。たとえば「ぶら下がり」は、肩幅に足を開いて立って、そこから上体を前に倒して、宙ぶらりんの状態にし、地球の中心に向かう自分の重力を実感する運動だ。脚にかかる体重を右左と少し変化させると、上体はゆらゆらにょろにょろと動きだす。身体=皮袋のイメージをもってさらに揺すると、その動きは千変万化。人間より、むしろスライムに似ているかもしれない。「ぶらぶら体操」と言われる所以である。

野口君の二塁打野口体操:上体をぶら下げて重さの方向を探る

運動とは「重さに聞く」こと

 彼に言わせると、運動とは、意志を持って身体を動かすことではない。むしろ「重さに聞く」ことだという。我々は重さを持って地球の中心に向かって引きつけられている。その重さの方向を理解して、それに合わせた動きをすれば、「いい運動」であるし、「気持ちよさ」も得られる、と言う。私たちが立っていることも、その「重さ」に従っているから、無理なく立てているのだという。

 その理屈から言えば、逆立ちも両手を踏ん張って、重力に逆らって身体をそらして体重を支える運動ではない。むしろ、それは、立つことのひっくり返しである。だから、重力にしたがって、手の上に頭の重さを流し込み、その上に胴体の重さを預け、さらに脚の重さをその上にそっと乗せる。我々が幼少期に、立とうとして少しずつバランスを見つけていったように、自分の重さの中心を感じてその流れに従って身体をまかせればいいのだ。逆立ちとは、そのバランスを見つけていくことが本質である。ただ、手は脚に比べて弱いから持続的に自立するのが難しい。だから、介添えにちょっと支えて助けてもらえばよい、というのである。

 重力の方向さえ分かれば、支えるのにたいして力がいらない。介添えがそっと手を添えるだけでも立っていられる。何なら壁にちょっと支えてもらっても良いし、その支えがほんの一点でも良い。壁面に足先の一部が触るだけでも「立って」いられる。このように、重力の方向を丁寧に探ることができれば、「えいやっ」と力む必要はない。力を入れなくても、正座した姿勢からでも、楽に逆立ちができるのである。

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