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吉本興業と世界のバレエ

「舞台に立つ人」が守られない日本の現実

菘あつこ フリージャーナリスト

 

bezikus/shutterstock.com

 日本の舞台人はほとんど何にも守られていないのではないか──吉本興業と所属芸人とのあまりにも荒い契約の実態、待遇の悪さについてのニュースが連日報じられるなか、あらためて、そのことについて考えてみたいと思った。というのも、そんな立場の弱さは、吉本興業のお笑い芸人だけの問題ではなく、他のジャンルで舞台に立つ人、メディアに出る人にも共通する部分が少なからずあると思うからだ。

ユニオンが守る労働環境

 私は、バレエ・ダンスを主な専門として新聞、雑誌に書かせていただいているフリーランス。近年、海外のバレエ団で活躍する日本人ダンサーがどんどん増えて、プリンシパルなどに上りつめるダンサーも出てきた。夏は欧米のバレエ団がバカンスに入り、彼ら彼女らが日本に里帰りしてくる季節。なので、日本ではそんな彼ら彼女らが出演する“ガラ(コンサート)”が増えて、欧米とは逆にバレエのピークシーズンのようになる。だから、私のような舞踊ジャーナリストは、この季節、普段は欧米にいるダンサーたちの踊りを日本で観て、インタビューして、と飛び回ることになる。

 そんななかで、ここのところ会ったダンサーたちに海外の状況を聞いてみた。

 まず、アメリカにはしっかりとしたユニオン、労働組合がある。バレエダンサーたちが入るユニオンといえば、通称「アグマ」と呼ばれる「AGMA(American Guild of Musical Artists)」。ピッツバーグ・バレエのプリンシパル、中野吉章さんに聞くと「ピッツバーグでは具体的に、週に30時間以上働くと残業手当。1時間ごとに5分休憩、3時間以上連続でリハーサルしてはいけない(昼休憩1時間を挟む)、1日のリハーサル時間は6時間まで。キャストの発表は3週間前まで、などと決められています」。また、装置の上で踊ったり空を飛んだりなど、2メートル以上の高さでの演技には危険手当が支給されるそう。

 加えて、給料の値上げ交渉や、ダンサーたちの要望についての交渉が3年に1度、弁護士を通して行われる。それに、日本でも最近、大企業中心に広がりつつあるようだが、セクハラやパワハラ対策に、匿名で悩みなどを相談できる別会社が入っていて効果を上げているようだ。現在、入会金$1000、年会費$100で、それも値上がり気味ということで、入会金を見ると決して安いユニオンではないが加入者たちは意味のあるものと捉えていることがうかがえる。

 こういったユニオンは、アメリカでは何も上記のバレエダンサーやオペラ歌手が所属する「AGMA」に限ったものではなく、例えば、ハリウッドなどの映画俳優やモデル、歌手などが所属する組合「SAG AFTRA(サグ・アフトラ)」があり、労働時間(撮影が遅くまでに及んだら、休養のための一定の時間を置かないと次の撮影はできない、など)や、最低賃金などをしっかりと決めて守らせている。また、裏方のスタッフのユニオンもあり、舞台の通し稽古でも、必ず中断して15分のコーヒーブレイクを取るという。

整った年金制度、怪我でも維持される雇用

 またバレエの例に戻るが、アメリカ以外の国についても聞いてみた。ロシア、アメリカ、ドイツといくつかの主要バレエ団を移籍してきた女性ダンサーは「労働環境が一番良かったのはドイツ」と話す。「社会保障、お給料制度、全てが公務員のような形で守られています」と。私がドイツのバレエ団を取材させていただいた時も思ったが、ドイツの州立や市立のバレエ団のダンサーというのは、基本的に毎日劇場に出勤する公務員なのだ。本番のない日も、休日以外は毎日、踊れる身体を作り、リハーサルをする。

 ちなみに、アメリカのバレエ団は、夏休みなどの長期休暇が長いなど上演シーズンが短いところでは働いている期間が半年に満たないバレエ団もあり、働いていない期間のギャランティーは出ない。だが、自分で申請するとアンエンプロイドメント制度という失業に関する制度を利用することができるという。

 ドイツでも休憩についてなどは細かく決められていて、また別の、現在、ドイツで働く若手男性ダンサーに聞くと「労働時間をきちんと計る担当の人がいて、時間になったら、途中でもリハーサルを中止させられるんです」ということ。アーティストは、ついつい、時間を掛けてでも良い表現を追求したくなりがちかもしれないが、ズルズルと長くリハーサルをしたからといって、良い舞台になるかどうかは微妙だ。きちんと切り替えて休養を取った方が、次に、質の高いリハーサル時間を過ごすもとになる可能性は高い。才能あるアーティスト達だからこそ、もっとも良い状態で仕事に取り組むべきという考え方が徹底しているように見える。

 加えて、ヨーロッパの国々は、国立や州立、市立などなら、ほぼ必ず、年金制度にも組み込まれている。日本人などの外国人でも、ある程度の年数働けば、その後、日本に帰ってきたとしても、働いた状況等に応じて、その国の年金を受け取ることができるのだ。

 そして、英国ロイヤル・バレエ団といった世界トップクラスのバレエ団のプリンシパルなら、日本の一流企業の同年代のエリート社員よりも年収は多いように見える。それぞれの具体的な年収は聞いてはいないけれど……。また、そんな彼ら彼女らが仮に怪我をして、手術などで1年以上舞台に立てないような状況になっても、雇用された状態のまま、バレエ団内でリハビリをして、復帰を目指すことができる。そこにいるスタッフは、バレエを知り尽くした専門家なので、その時にできる最も適切な方向でリハビリが進む可能性が高い。

 そんな労働環境は、日本のバレエダンサーたちには、今は望めない……。日本トップのバレエ団でも難しいように見える。

 せめて、トップクラスのバレエ団だけでも、なんとかしないといけないのではないだろうか? 今、日本のトップクラスのバレエ団のプリンシパルなど主要ダンサーは、欧米のカンパニーに移籍したとしても、同様に重要な役割を担う人材だと感じる人が多々いる。才能のあるダンサーは海外にどんどん出ていく……そのままで良いのだろうか?

吉本興業が運営する「笑いの殿堂」、なんばグランド花月

「下積み時代の悲哀」はネタか美談か?

 もう一つは、お笑い芸人もバレエダンサーも、きちんとした条件の確認が必要なのかもしれない。アメリカの「AGMA」に入れるバレエ団入団もヨーロッパの国立バレエ団に入ることも、そんなに簡単なことではない。また、アメリカの「SAG AFTRA(サグ・アフトラ)」に入ることができるのも、基本的に厳しいオーディション等を経て仕事を得た人だけだろう。

 日本では、当面暮らしていける収入が見込めないにもかかわらず、所属の学校卒業生をそれなりに受け入れているように見える吉本興業と、バレエ教室の延長線上にあるようにも見える日本のバレエ団には少し重なるところがある。

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