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意志と根性に頼らない生き方をするために

意志に左右されず続けられる客観的仕組みをこしらえる

吉岡友治 著述家

「仮面のレッスン」で使われる仮面

 自慢ではないが、私は意志が強くない。いろいろと好奇心は持つ方なのだが、根気がまったく続かない。たとえば、音楽自体は大好きなのだが、楽器がちゃんとできない。子どもの頃、ピアノも七年間もやったのだが、訓練や練習が嫌いなので、ちっとも上手くならなかった。ギターも三年やったが、あまりにも下手なので、もう弾こうとも思わない。テニスも、父親にしばしばコートに連れて、打たされたのだが、やっぱり挫折。スキーも同じで、毎年冬に滑りに行っていたのに、未だにターンが下手なまま。

 考えてみれば、いろいろチャンスは与えられて来たと思うのだが、生来の不器用のために何ひとつモノにならなかった。せっかく考えてくれたのに、親の期待に十分応えられなくて申し訳なかったと思う。だから、いまだにピアノがうまい人やテニスの試合を見ると、子どもの頃の不器用な自分を思い出して胸が苦しくなる。機会の割には、自分が人生で成し遂げられたことは、ごく僅かしかない。

 ただ、逆に言えば、世の中には「意志が強い人」というのは、それほどたくさん存在するのかとも思う。人間はそもそも意志が弱いのがデフォルトであり、「意志が強い」ことの方が希なことではないか? それに生来意志が弱い人がいくら意志を鍛えたって、そもそも人並み以下の意志しかないのだから、鍛えた結果だって知れている。としたら「意志を強くしよう!」と力み返るのは無駄なことで、生まれつき弱い意志と何とかうまくつきあっていく方が幸せなのではないだろうか?

意志なんてどこにあるのか?

 そもそも、意志なんてどこに見出すことができるのか、疑問に思う。たとえば、哲学でもよく言われる議論だが、自分の手を前に出そうとする。これを我々は「手を前に出そう」という意志が働いて、自分の手を前に出すのだ、と考える。たとえ自分の手であっても、それ自身がひとりでに動いたり働いたりわけではない。意志に動かされて前に出るのだ。とすれば、「前に出そう」とする自分の意志だって、何かによって動かさなければならないはずだ。いったい何によって動かされるのか?

 やはり「その意志を動かそう」という何か別なものによって動かされるしかないだろう。それがまた意志だとすると、手を動かそうとする意志を動かそうとする意志が必要になる。でも、ここで終わりにはならない。

 この「手を動かそうとする意志を動かそうとする意志」は何によって動かされるのか? もちろん、「その意志を動かそう」という別な意志によって動かされる他ない。だから、手を動かそうとする意志を動かそうとする意志を動かそうとする意志が必要になる。こうやって考えれば、「手を動かそうとする意志を動かそうとする意志を動かそうとする意志を動かす意志を動かす……(以下同文)動かす意志」も必要になってくるだろう。

 これでは、いつまでたっても、最初に「動かす意志」がどこから来るのか分からない。

自分の決意で自分を変えられるか?

 この事情は「自分を変える」という企図を考えれば、さらにはっきりと分かる。この「ダメな自分」を一念発起して変えようとする「自分」がいたとして、その変えようとする「自分」の一念はどこから来るのか? それもまた現在のダメな自分の一部ではないのか? とすれば、ダメな自分の一部なのだから、どのみち、ろくな一念ではない。早晩、挫折する運命にあるのも当然かもしれない。

 「心を入れ替えて頑張ります」もよく聞く言いぐさだが、うまく行ったためしは聞いたことがない。「理屈を言うな!」と言われそうだが、理屈で考えればすぐ分かる。自分の「心」が自分の気持ちであるなら、それは自分と一体になっているはずだ。自分と一体の「心」を簡単に「入れ替えられる」訳はない。「心」を入れ替えようとする「心」はどこから生まれるのか?

 もちろん、それを「根性がない!」「人間は変わることを信じろ!」と非難する人もいるが、その「根性」自体どこから降ったり湧いたりするのか、そういう人に聞いては答えてくれたことはない。「やれ!」と言われたことをやらない人に、たんに「お前は根性がない!」とレッテル付けして排除するだけなのである。

自分の意志など信用できない

 いささかやけ気味に聞こえるかもしれないが、そんな訳で、私は「自分の意志」など一切信用していない。もちろん「自分を変えよう!」なんて大望も持っていない。人間、そう簡単に変わるわけはない。だから、「意志だ! 根性だ! さあ自分を変えろ!」と暑苦しく連呼する人は苦手だし、そのアドバイスも聞く気はない。

 「お前は人間が変わるという瞬間を見たことがないのだな、人間の可能性を信じられない、哀れな奴だ」とあざ笑う人がいるかもしれない。残念ながら、私は「人間が変わる」という瞬間にいくつか立ち会ったことがある。おそらく、自分が変わったのでないかなと感じられる瞬間もないわけではない。しかし、そのメカニズムはまったく意志の力や根性とは別物なのである。

人間が変わるとは?ー仮面のレッスンの例

「東京賢治の学校」で参加者の体をほぐす竹内敏晴氏=2001年9月16日、東京都立川市
 そういう瞬間に始めて立ち会ったのは、師匠の舞台演出家竹内敏晴の行った「仮面のレッスン」のときだった。「仮面のレッスン」とは、仮面をつけて動くというシンプルな訓練である。

 ただ、その場の思いつきで動けばいいのではない。その前にけっこうな儀式がある。まず鏡の前で面を付け、両脇には百目蝋燭が燃えていて、他の照明はない。面を付けた自分の顔を鏡に映してしげしげ眺める。それから、ゆっくりと身体を動かしてみる。どんな動作がどんな姿勢が面に相応しいのか、慎重に探る。何をして良いのか分からないまま、私も仮面を付けて動かしてみる。何が面に相応しい仕草なのか、姿勢なのか……

 そんなときに、突然、口の大きく裂けた面を付けた隣の友人がくすくす笑い出し始めた。何がおかしいのか、鏡の中の自分を指さして膝を叩いて笑う。声が上がる。だんだんその声が大きくなる。

 笑うときには、吸う息より吐く息が少し多くなるらしい。だから、彼は、吐いた息を取り戻そうと一気に吸う。横隔膜が痙攣して、さらに大笑いを引き起こす。口が裂けた仮面の表情が、彼の顔にピッタリ張り付き、彼が笑っているのか、面が彼を笑わしているのか、もう分からない。

 だが、そうして笑っているうちに、呼吸はしだいに苦しくなる。大きく息を吸ってみる。吸っても吸っても息は足りない。あえぐように彼は息を吸う。その様子は、いつの間にか嗚咽に似てくる。気がつくと、彼はもう泣いている。泣いて泣いても足りない。天を仰いで声を振り絞って泣く。大きく口の開いた仮面の表情が今度は号泣しているように見える。

 だが、吸う息が足りなくなったようだ。泣いて泣いて、泣くのが極点にまで達すると、今度は笑いに変わる。笑って笑って、その笑いが極点に達すると泣き出す。しまいには、笑うかと思えば泣き、泣いたかと思えば笑う。そんなことを何度か繰り返した後、ついに彼は泣き笑いしながら「誰か止めてくれーっ!」と叫び出しだ。何人かが飛び出て、面を外す。ゼイゼイ言って床に崩れ折れる彼。

 後から感想を聞いてみると、「鏡を見ているうちに、なんで、こいつはこんなバカな顔をしているんだ、とたまらなくおかしくなった。それで笑ったんだけど、笑っているうちに、笑っている自分がおかしくなって、また笑った。だけど、そのうちに、こんな詰まらないことで大笑いしている自分が哀れになった。情けなくなって泣けてきたんだ。わんわん泣いている自分も可哀想で、さらに泣けてくる。でも、しばらくしたら、こんなつまらないことで大泣きしている自分がバカバカしくなって…もうその繰り返しだよ」という。日頃は真面目な男で感情をむき出しにすることはほとんどない。変貌ぶりに目を見張った。

変身する条件とは?

 それから、師匠に倣って、何度か自分でも「仮面のレッスン」をリードしたことがあるのだが、いくつかの条件を守らなければ、こういう状況にはならない。まず、照明は蝋燭であることが望ましい。蛍光灯とか電球とか安定した明かりではダメだ。蝋燭のちらちらした光量の変化が、仮面に陰翳と表情を付ける。その面の動きを見ているうちに、仮面が自分の顔に乗り移ってくる。

 第二に、鏡が必要である。仮面を付けた自分の身体がすべて見えるサイズが望ましい。そこで、少しずつ身体を動かしてみる。そうすると、面に相応しそうな動きがちょっと見えてくる。そこで、少しずつ試しながら動いてみる。ダメそうだったら、別な方向を探る。大丈夫そうだったらさらに大きく動いてみる。そうすると、動きもさらにハッキリしてくる。その段階で少し歩く。歩き方も大事だ。歩き方が決まると姿勢が決まり、それにつれて手の動きもついてくる。

 第三にある種の集中力が必要だ。これらのプロセスを集中が途切れないように追求していく必要がある。しかし、これも「そうするぞ!」と力むのでは、かえってうまく行かない。出てきた動きを見極め、それを辛抱強く育て、次第にそれが独自の力を持ってくるのを待たなければならない。とはいえ、長く待てば良いのではない。タイミングを上手く摑んで、先に進める。

 第四に、そのようにして動きを見つけても、注意しないと動きも姿勢もすぐしぼんでしまう。とくに大事なのは、面を付けている顔を隠してはいけないことだ。他の人にさらすのである。「面がいつも自分と観客の間にあるように支えなければならない」と師匠は言った。後ろ向きになると、仮面は生きない。

 しかし、このようにして、仮面がしだいに自分を支配するようになると、その力は激烈である。今昔物語には、ある女が般若の面を付けたら、その面が顔にくっついて離れなくなり、そのまま家を飛び出して鬼になってしまった、という話があるが、さもありなん。先の友人の場合もそうであったように、いったん「面が憑く」と、自分では十分統御できない。面はそれ自身のエネルギーで勝手に動き、自分のその後ろで手綱を握って、何とか方向だけコントロールしようとするのが精一杯なのである。

変身するにはきっかけを活かす

 「自分が変わる」ということを考えるとき、私はいつもこの経験を参照する。ハッキリ言えることは「意志」や「根性」という言い方は、ものごとを単純化しすぎている、ということである。

 変わるときの集中力は、「意志」や「根性」とはっきり違う。むしろ、それは自分の中でもやもやと発生し始めた何かに注目し、その方向をあれこれ探り、できることなら、それを育てて、しだいに大きく明確になっていくプロセスにつきあう力だ。とくに、最初の出発点は「自分が決める」という主体的な動きではない。むしろ何かを「面白いと思える」というやや受動的な動きから決まる。

 仮面のレッスンでは、いくつかの面の中から、自分が面白いと思える面を選ぶことから始まる。さっと全体を見回して、自分に何かを感じさせてくれるものを選ぶのだ。それに失敗すると、どこか変化がぎごちない。あるいは、そもそも変化が起きない。

 そういえば、ギリシア語の動詞には、「自分がする」ことを表す能動と「他人からされる」受動の他に中動相というあり方がある。自分からするのではないが、相手の意のままになるのでもない。その中間に何となく成立する何かがある。それを表すのが中動相middle voiceなのである。その気配に正しく反応するには、そこからの影響に対して障害が起きず、いつでも反応していけるような自分の準備も必要だ。

 それだけではない。変わるためには、環境面での準備も欠かせない。ちらちらと動く蝋燭の光は、まるで仮面が生きているかのような感じを与えるきっかけになる。蛍光灯の単調な光では、鏡を使って自分がどうなっているかをしげしげ見ても何も生まれない。仮面と自分の間で生まれた感じが、次第次第に自分の身体に移ってくるのを待つ。そこで得られた新しい「自分」が、他人の目の前に晒されることで、さらに確固としたものになる。

 これだけの複雑なプロセスをたどって、やっと自分が自分でない何かに変化する。それなのに「お前が変われないのは根性がないからだ」と非難する粗雑さは、一体どこから来るのか? おそらく、そういう人は、変化や行動についてきちんと検討したことがないのだろう。ただ、自分が、がむしゃらにやって結果が良かったことを反芻しているだけなのだろう。

変われないことは悪いことではない

 さらに面白いことがある。普通、仮面を付けるときは、ニュートラルな面、表情のある面、キャラクター面という風に1つずつ段階を踏んで面を付けていく。だいたいニュートラルな面では、火になったり風になったり、人間以外のものになる訓練をするのだが、表情のある面やキャラクター面では人間に変身する。

 このシステムを開発したフランスの俳優ルコックは言っている。「私の教室には、俳優だけでなく、画家や建築家も来ている。彼らはニュートラルな面なら、俳優達よりうまい場合も少なくない。だが、キャラクター面が付けられない。キャラクター面を付けられるのは俳優の資質を持った人だけなんだ」と。つまり「自分が変わる」には、与えられた資質によってそれぞれ限界があるのだ。変身に積極的な興味と資質がある人だけが変身できる。その資質がない、あるいはそれを必要としない人は、いくら感覚やセンスが良くても変身しない。だが、その変われないという資質を活かすのも悪いことではないのだ。

 もちろん、私は自分の体験を絶対化しようとは思わない。ただ、人間が変わる、ということは、それなりに大変なことであり、ある日一念発起したぐらいで、すぐ結果が出てくるほど甘いものではないのだ。資質を持ち合わせ、環境が用意でき、自分なりに努力して準備を整えて、ようやく「変わる」というとば口に立てる。当然のことながら、最初に考えたときから、これらの準備がそろうには、それなりの時間がかかる。二年、三年で結果が出るなら幸運な方だろう。

根性にしがみつかない仕組みを作る

 それなのに、何かというと、根性とか意志とかにしがみつく人が多いのはなぜか? 失礼ながら、簡単な変化しか考えていないせいだと思う。運動系統の人に、こういう言い方をする人が多いのは、そもそも、やっていることが単純化されていて、考えるべき要素が少ないせいかもしれない。だから、世界観も単純になり、「やりゃあいいんだよ!」とか「なせばなる!」みたいな伝法な言い方になる。こういう人にはぜひ「機が熟する」という言い方を思い出して欲しいと思う。

 ちなみに、私が何か長期にわたって何かをしなければならないときは、途中で飽きても何とか続けられる客観的な仕組みをこしらえる。たとえば、誰かを巻き込んで一緒にやる、あるいは、終わりや締め切りを宣言する、などである。いったん、外に自分の意志を表明したら、他人は期待する。私はとことん臆病だから、その期待を裏切るのが怖い。だから、嫌でも何でも、そのスケジュールを守ろうとする。珈琲を飲んで気分を切り替え、お酒を飲んで発散して、あまりそれだけに集中しすぎないで、とにかく淡々と作業を続けていく。そのうちに、気がつくと、いつの間にか気分が乗ってくる。後は一気呵成なのである。自分をどうだまし、どう誤魔化して、当面を乗り切るか、それが「意志」の仕掛けなのである。