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「あいトリ」 こうして表現が窒息する

集団化と自発的隷従が加速する社会

森達也 映画監督・作家

 あいちトリエンナーレへの補助金約7800万円の交付中止を発表した萩生田光一文部科学相は、その理由を「申請のあった内容どおりの展示会が実現できていない」と説明している。確かに催しのひとつとして予定されていた「表現の不自由展・その後」は、結果として一時中止になった。でも問題は、現状ではなく申請(手続き)のほうらしい。

 報道によれば萩生田文科相は、「慰安婦を表現した少女像などの作品展示について、批判や抗議が殺到して展示継続が難しくなる可能性を把握していながら、文化庁に報告がなかったことも問題視」したという。しかしそうした可能性について申請の段階で報告する義務は定められていない。

 最初にこれを発表したぶら下がり会見の映像をネットで見た。記者たちに囲まれた萩生田大臣は、開口一番に「あいちトリエンターレ」と発言している。トリエンナーレではない。トリエンターレ。

 揚げ足をとるつもりはない。僕も騒動が始まったころは、妻や友人たちと雑談しながらトリエンナーレというワードを何度も言い間違えている。でもぶら下がりとはいえ記者たちを前にした会見は、家人や友人たちとの雑談の場ではない。これほどに重大な案件についての決定を公式に発表する大臣として、あまりに緊張感が希薄すぎると思うのだ。映像をよく見れば、「ターレ」と発音する前に萩生田大臣は半拍ほどの間を置いている。つまり「トリエン…ターレ」。ターレはひょっとしたら違うかもしれない、との逡巡が働いたのだろう。ならば少なくとも、ケアレスな言い間違いではない。

文化庁の補助金不交付が決まり、取材に応える萩生田文科相=2019年9月26日

ありえないほど緊張感が欠如した萩生田文科相

 もう一度書く。ありえないほどに緊張感が欠落しているし、ここまでを決定するにあたってほとんど考えたり悩んだりしていないことが露呈されている。「ターレ」と口に出す前に逡巡するのなら、もっと別のレベルで煩悶して逡巡するべきだった。さらに9月27日の文科省会見で、萩生田文科相は東京新聞の望月記者の質問に対して答えながら、「どういうものが展示されているのか、個別のものは承知していませんし」と述べている。つまり会場に足を運んでもいないのだろう。ならば煩悶などするはずがない。ほぼ脊椎反射だ。

 そもそもは「表現の不自由展・その後」の展示中止が発表された8月2日の段階で、菅義偉官房長官は「補助金交付の決定にあたっては、事実関係を確認、精査して適切に対応したい」と会見で指摘していた。これが伏線だ。いや伏線ですらない。既定路線はここで決まったのだろう。ならば悩む理由はない。現在の展示状況を確認する必要もない。煩悶しないし葛藤もない。

 あまりにも露骨だ。いや露骨の域を超えている。もしも脚本家から次の映画作品としてこんな筋書きのプロットを見せられたら、設定とキャラクターとストーリーがあまりに安易で現実感が希薄すぎるとして、僕は脚本を突き返しているはずだ。もっと悩めよと言いたくなる。それほどに薄い。ペラペラだ。でもこれはできの悪い脚本ではない。現実なのだ。

 多くの人が指摘するように、これは完全に後出しじゃんけんだ。しかもほぼ二カ月の後出し。どんな表現や催しでもリスクは常にある。「万が一」をゼロにすることなど不可能だ。僕だって明日生きているかどうかわからない。これからコンビニに買い物に出て車にはねられるかもしれないし、歩行中に心臓の発作に襲われるかもしれない。万が一を気にしていたら何もできなくなる。さらに7800万円は「表現の不自由展・その後」だけを対象にした補助金ではない。この展示は全体の一部でしかない。交付中止の論理は最初から破綻している。

 つまり「展示継続が難しくなる可能性を把握していながら文化庁に報告がなかったから交付中止」は詭弁だ。詭弁という言葉は知ってはいるが、これほどに完璧な詭弁はないだろうと思いたくなるほどに完璧な詭弁だ。報告がなかったことを問題視するということは、報告していれば補助金は問題なく認められていたということを意味する。断言するがそれはありえない。これほどにリスクが高い展示には補助金は認めない、との対応をしているはずだ。というかそもそも、開催前の段階でこの状況を(可能性はともかくとして)予測しておけというほうが無理だ。

 つまり何をどうやっても補助金は交付されない。

 このまま補助金打ち切りが認められるのなら、多くの人は「これからはリスクを軽減しなくてはならない」と思うはずだ。万が一をゼロにしなくてはならない。でも現実には、リスクや万が一をゼロにすることなど不可能だ。ならばどうすればよいか。余計なことをしなければよい。こうして表現が窒息する。

実は存在しなかった「放送禁止歌」

 テレビで仕事をしていた1999年、僕はテレビドキュメンタリー「放送禁止歌」を発表した。放送はフジテレビの深夜枠だ。しかも関東ローカル。視聴率は1%にも満たなかったはずだ。だから多くのテレビ番組と同様にこのドキュメンタリーも、放送が終わった瞬間に忘れ去られる存在のはずだった。

 ところが放送後の反響は予想を超えて大きく、フジテレビは何度か再放送を行い、さらには放送禁止歌をテーマに本を書かないかとの依頼まで舞い込んだ。これが僕にとっての活字デビューとなる。

 とにかく「放送禁止歌」をテーマにしたドキュメンタリーを撮りながら、そしてさらに取材を重ねて原稿を書きながら、表現の自由と自主規制について僕は考え続けた。撮影のためのリサーチを始めたころは、権力による規制や弾圧が放送禁止歌の本質であることが作品の前提だった。でも取材を始めてすぐに気がついた。この問題について放送や音楽業界で働く人たちが語るとき、使われる述語は常に「らしい」とか「ようだ」なのだ。要するに伝言ゲーム。ただし始まりがわからない。ループしている。どこまで探っても伝聞なのだ。

 権力による規制も弾圧も見つけられない。やがて確信した。放送禁止歌は

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