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スポーツは五輪を必要としているのか

オリンピックというドーピング中毒から抜け出すために

小笠原博毅 神戸大学大学院国際文化学研究科教授

私たちは五輪という中毒症状に陥っていないか

 来年開催予定の東京オリンピック/パラリンピック(以下、東京五輪)には様々な問題点があり、開催を素直に歓迎することなどできないとみんな知っている。

 放射能は「アンダー・コントロール」だと嘘をつき、招致決定に影響力ある有力者に賄賂を渡したと嫌疑をかけられても開き直って決行しようとする東京五輪。震災からの「復興」のために資材と人材を本当に必要とする東北地方を放ったまま行われる東京五輪。1兆5千億円もの税金がたった2週間の巨大な「運動会」だけのために使われ、結果として大手建設会社や広告代理店だけが利益を得る東京五輪。野宿者や公営住宅の居住者を強制的に立ち退かせ、街路樹を伐採し、都民生活を破壊する東京五輪。突貫工事でしわ寄せを受ける末端労働者の命を削って行われる東京五輪。メダル獲得と放映権を持つ巨大メディアへの忖度のためなのに、「アスリート・ファースト」などというおためごかしで酷暑のなか無理な時間設定で競技させる東京五輪。「ボランティアとして働かないか」、「一緒に参加しよう」と誘惑して「国民一丸」の既成事実を作りたい東京五輪。本当に、きりがない。

開催地決定の最終プレゼンテーションの壇上で手を振る安倍晋三首相=2013年9月7日、ブエノスアイレス

 知っているのに、批判しない、考えようとしない、真剣に取り合わない、シニカルにかっこつけて偉そうに「解説」した気になる、自分には関係ないとシカトを決め込んでいる。ひどい場合には、数々の問題点を承知したうえで「どうせやるなら」成功させようと、五輪を存続させることで混迷するグローバル資本主義に貢献しようとする巨大NGO(IOC、国際オリンピック委員会のことだ)を喜ばせる人たちがいる。

 酷暑には打ち水、灼熱の太陽には菅笠、挙句の果てには朝顔を植えるという。まったくどうかしている。NHKを筆頭に、マス・メディアが効果的に利用されて、五輪への中毒依存症状(アディクション)がどんどん加速させられている。矛盾や問題を覆い隠すために、まるで五輪なしでは世界が成り立たないかのように、感動、共感、応援という薬物が投与されているようだ。これはもう、五輪というドーピングである。

 五輪で行われる各競技の統括団体は、厳しいドーピング規定をもって選手たちの「不正」に対処している。化学物質の摂取などによって不自然に競技力を向上させることを禁じているのは、それが競技の公平性に反する行為だからである。

 しかし、もし五輪自体がもはや中毒依存を誘発させるものだとしたら、洒落にならない皮肉である。さらには、生物学的・解剖学的に自然な状態にある選手の身体環境を、人工的科学的手段で五輪基準に合わせることが行われており、その処置に異議を申し立てた場合、その選手は実質的に競技から追放されるリスクを追わされる。それが現実に起こっている。

キャスター・セメンヤの悲劇

 本年9月6日、前回のリオデジャネイロ五輪女子800mの金メダリストであるキャスター・セメンヤ選手が、故郷南アフリカのサッカー・クラブでトレーニングを開始し、来シーズンには選手登録される見通しであることが報道された。世界選手権で金メダルを三度獲得し(2009年ベルリン、2011年大邱、2017年ロンドン)、ロンドン五輪の銀に続いてついにリオで頂点に立ったこの稀代のランナーが、陸上からサッカーに転向するという。より正確に言えば、このまま陸上を続けることが制度的に厳しくなっているのである。

リオ五輪の女子800mで金メダルを獲得したセメンヤ選手=2016年8月20日

 セメンヤは男性ホルモンの一種テストステロンの値が女性であると判断される範囲を超えているため、男性ホルモンの分泌を抑える薬物を服用して「正常値」の範囲に収めておかないと、女性として競技することを禁じられているのである。セメンヤは生まれてからずっと女性という自覚のもとに、女性として生きてきた。しかし体内には精巣に相当する
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