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権力者は「僕らの優しいお父さん」ではない

あいトリ 致命的に無責任な〝表現の自由戦士〟たち

赤木智弘 フリーライター

ご都合主義的な表現の自由を振りかざす人たち

 主にネット上で「表現の自由戦士」と呼ばれる人たちがいる。どのような人たちか。

 アニメ調のポスターなどの掲示物において、スカートが短かったり、胸が強調されすぎているなどの批判が起こったり、そのポスターを取り下げるような決定が行われたときに「表現の自由を守れ!」と主張してくる人たちがいる。しかし、その中でも僕が「表現の自由戦士」と認識する人たちは、もともとそのポスターなどを掲示していた側と、それを批判した側。両者の話し合いのうちで、撤去などの合意に至ったという過程を無視して、そもそもアニメ調の絵などが批判されたというだけのことに対して、過剰に反発するような人たちである。

「表現の不自由展・その後」に出展された「平和の少女像」と元慰安婦の写真=2019年7月31日、名古屋市東区の愛知芸術文化センター

 僕自身も、アニメに対する偏見には憂慮しており、アニメ調だからと批判されることに対しては批判する。しかし、批判の上で、最終的に決定された結果が、たとえ撤去という不本意な結果となったとしても、それを尊重するのが当たり前ではないか。だが表現の自由戦士たちは、その当たり前を容認しないのである。

 だから「表現の自由戦士」とは、その意味合いとしては「歴史修正主義者」と同じだ。歴史修正主義者が、決して正しく歴史を修正する人たちを指すのではなく「ご都合主義的に歴史を改ざんする人たち」であるように、表現の自由戦士は表現の自由のために戦う人たちではなく「ご都合主義的な表現の自由を振りかざす人たち」を指す言葉である。

 そのくせ、大抵の歴史修正主義者がそうであるように「自分たちは表現の自由を守っている」と勘違いしている。実質的に表現規制派と考えて差し支えない人たちである。口さがない人たちの中には「表現の自由戦士たちが守ろうとするのは、表現の自由ではなく「ズリネタの自由」だ」と主張する人もいるが、それはあまりに偏見がすぎるし、表現の自由戦士たちの本質を見誤っている。

 では、表現の自由戦士たちの本質とは何か。その点について、あいちトリエンナーレへの補助金不支給決定の問題を用いて論じてみたい。

論じるべきは行政の介入だが

 あいちトリエンナーレ問題についての概略をさらっと説明すると、あいちトリエンナーレ内における特別展「表現の不自由展・その後」において、従軍慰安婦問題を取り上げた少女像の展示や、昭和天皇の肖像を燃やすような表現の展示があったことに対し、河村たかし名古屋市長ら、行政の長などの立場にある人達が「日本人の心を踏みにじる」などとして、表現内容に介入した問題である。

 また、一連の流れの中で菅官房長官は「補助金交付の決定にあたっては事実関係を確認、精査して適切に対応したい」と発言している。脅迫者による展示への妨害や、それに伴う展示中止などはあったが、前者は犯罪であり、後者は主催側の裁量である。表現の自由という括りで論じる必要があるのは、行政による表現内容への介入だけである。

菅義偉官房長官
河村たかし名古屋市長

 当然、表現の自由を守る立場であれば、権力者による表現への介入は強く否定されなければならず、少なくとも僕は「表現の自由を守る」と日頃から主張している人たちの怒りの声が、正しく行政に向かうことを期待していた。

 しかし、表現の自由戦士たちは政府側を大々的に批判するどころか、不自由展を休止せざるを得なかったトリエンナーレ側を叩いたのである。結局、補助金の不支給が決定され、日本の表現の自由は萎縮を余儀なくされることとなった。

 では、なぜ表現の自由戦士たちは、この一大事に行政側を叩かなかったのだろうか? それは彼らが持つ「公平観」が関係していると思われる。

 表現の自由戦士たちは、自分たちは公平な価値観を有していると信じている。彼らは「誰が言ったかではなく、何を言ったかで判断するべき」という考え方をしており、権力者の言葉も、一般市民の言葉も、同じように扱っているし、それが正しいと考えている。

 しかし、その一見進歩的な考え方が着地する場所は「権力に対する懸念の忘却」である。あいちトリエンナーレ問題において、表現の自由たちは「日本人の心を踏みにじる」などといった行政の長たちによる政治的な介入を、単に「自分の気持ちを表しただけ」であるとみなした。

 一方で、あいちトリエンナーレ内で表現の不自由展を開催を決定し、展示内容を直接決定できる権力を持った人間を「日本を貶める政治的プロパガンダの主体」であるとみなして、盛んに攻撃したのである。

 すなわち、展示に対する決定権を直接持たない人たちの主張は意見に過ぎず、現実的な力を持ちえない一方で、決定権を持つ人たちを表現の主体であり、批判すべき対象であると考えたのだ。

 だが、現実には決定権を持っている人たちの「表現の不自由展開催」という決定は、卑劣な脅迫事件と、意見に過ぎなかったはずの行政の長たちの主張によって覆された。

 また助成金不支給の決定により、今後、行政支援の下で行われるあらゆる表現行為からは、わずかでも行政の介入を許しかねないような表現が排除されることとなるだろう。表現の自由戦士たちは、彼ら自身の見事な活躍により、表現の自由を失ってしまったのである。

権力への懸念を忘却した表現の自由戦士たち

 河村名古屋市長が「日本人の心を踏みにじる」というお気持ちを表明した時点や、菅官房長官が補助金の支払いに言及した時点で、しっかりとした批判が両者に対して巻き起これば、文化庁側も補助金不支給という安直な手は打たなかったであろう。

 しかし、その言動は批判されず、社会に受け入れられた。その状況を見た文化庁が、政治的判断として補助金不支給を決定したのである。

 市長や官房長官に直接的な決定権があったわけではない。しかし権力者が意向を示し、それに賛同する声が強ければ、行政は自ずとそちらに動くのである。例の「忖度」というやつである。

 しかし、権力に対する懸念を忘却してしまった表現の自由戦士たちには、忖度というメカニズムが理解できない。表現の自由戦士たちは、今もなお「表現の不自由展を中止したのは覚悟がなかったから」などとして、あいちトリエンナーレ側を叩き続けるばかりなのだ。

トランプ米大統領

 ドナルド・トランプ米大統領は、自身のツイッター上で何度か「プレジデントハラスメント」という表現を用いている。大統領という権力者が批判されるのは民主主義国家においては当たり前のことだが、それをハラスメント、すなわち嫌がらせであると主張しているのである。

 表現の自由戦士たちの公平観はこれと同じだ。行政の長や、経営者といった権力者の発言に対する、ごく当たり前の批判を嫌がらせと認識し、「不公平」であると認識する。そして、その情報を拡散し「権力者の自由に対する妨害者」としてアカウントを晒し上げて、攻撃を加える。これを繰り返せば、力を持たぬ批判者は、その勢いを徐々に削がれていくのである。

 民主主義社会において、市民は権力を監視する役割を持つ。そして権力者に真っ向から対抗するために「団体」を構築する。そして団体を通じて行政や会社などに対して「要望」を提出し話し合いを行う。それはまっとうな民主主義的手段であり、それを繰り返して初めて「平等」という結果が得られるのである。

現実に対する想像力をあまりに欠いている

 しかし、表現の自由戦士たちにはそれが、個人に対する団体による「ハラスメント」や「脅迫」として映る。権力者という個人の発言や、自由であるはずの会社の経済活動に対して、徒党を組んだ何者かが不当にイチャモンを付けていると考えている。

 つまり、表現の自由戦士たちは、まっとうな民主主義的手続きこそ「不当」で「不公平」と認識しているのである。

 僕は表現の自由戦士たちは確かに「公平」であるとは思う。しかし、彼らはあまりに現実に対する想像力を欠いている。そして、致命的に無責任だ。

 公平という理念が、現実の平等を担保しないどころか、不平等を促進しているという現在進行系の事実に対し、彼らは何ら責任を負おうとしない。

「桜を見る会」で、芸能人らに囲まれる安倍晋三首相=2017年4月15日、東京・新宿御苑

 権力者は「僕らの優しいお父さん」ではない。権力者とは、いつでも他の人間を地獄に追いやることのできる暴君予備軍である。そうみなすのが民主主義社会における原則である。だからこそ、それを抑止することが重要なのだ。

 表現の自由戦士たちの「公平さ」は、ただ単に権力の無遠慮な行使を「ヨーソロー」と、追認しているだけである。ヨーソローでは平等は成り立たない。平等を成り立たせるには、強者に楔を打ち、弱者に下駄を履かせるという方法を積み重ねるしか無い。たとえそれが不公平に思えたとしても、民主主義社会における、平等たる努力を絶やすべきではないのである。