赤木智弘(あかぎ・ともひろ) フリーライター
1975年生まれ。著書に『若者を見殺しにする国』『「当たり前」をひっぱたく 過ちを見過ごさないために』、共著書に『下流中年』など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
あいトリ 致命的に無責任な〝表現の自由戦士〟たち
あいちトリエンナーレ問題についての概略をさらっと説明すると、あいちトリエンナーレ内における特別展「表現の不自由展・その後」において、従軍慰安婦問題を取り上げた少女像の展示や、昭和天皇の肖像を燃やすような表現の展示があったことに対し、河村たかし名古屋市長ら、行政の長などの立場にある人達が「日本人の心を踏みにじる」などとして、表現内容に介入した問題である。
また、一連の流れの中で菅官房長官は「補助金交付の決定にあたっては事実関係を確認、精査して適切に対応したい」と発言している。脅迫者による展示への妨害や、それに伴う展示中止などはあったが、前者は犯罪であり、後者は主催側の裁量である。表現の自由という括りで論じる必要があるのは、行政による表現内容への介入だけである。
当然、表現の自由を守る立場であれば、権力者による表現への介入は強く否定されなければならず、少なくとも僕は「表現の自由を守る」と日頃から主張している人たちの怒りの声が、正しく行政に向かうことを期待していた。
しかし、表現の自由戦士たちは政府側を大々的に批判するどころか、不自由展を休止せざるを得なかったトリエンナーレ側を叩いたのである。結局、補助金の不支給が決定され、日本の表現の自由は萎縮を余儀なくされることとなった。
では、なぜ表現の自由戦士たちは、この一大事に行政側を叩かなかったのだろうか? それは彼らが持つ「公平観」が関係していると思われる。
表現の自由戦士たちは、自分たちは公平な価値観を有していると信じている。彼らは「誰が言ったかではなく、何を言ったかで判断するべき」という考え方をしており、権力者の言葉も、一般市民の言葉も、同じように扱っているし、それが正しいと考えている。
しかし、その一見進歩的な考え方が着地する場所は「権力に対する懸念の忘却」である。あいちトリエンナーレ問題において、表現の自由たちは「日本人の心を踏みにじる」などといった行政の長たちによる政治的な介入を、単に「自分の気持ちを表しただけ」であるとみなした。
一方で、あいちトリエンナーレ内で表現の不自由展を開催を決定し、展示内容を直接決定できる権力を持った人間を「日本を貶める政治的プロパガンダの主体」であるとみなして、盛んに攻撃したのである。
すなわち、展示に対する決定権を直接持たない人たちの主張は意見に過ぎず、現実的な力を持ちえない一方で、決定権を持つ人たちを表現の主体であり、批判すべき対象であると考えたのだ。
だが、現実には決定権を持っている人たちの「表現の不自由展開催」という決定は、卑劣な脅迫事件と、意見に過ぎなかったはずの行政の長たちの主張によって覆された。
また助成金不支給の決定により、今後、行政支援の下で行われるあらゆる表現行為からは、わずかでも行政の介入を許しかねないような表現が排除されることとなるだろう。表現の自由戦士たちは、彼ら自身の見事な活躍により、表現の自由を失ってしまったのである。