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「心地よいもの」「美しいもの」だけが芸術なのか

あいトリ 日本という国の芸術文化に対する態度が試されている

毛利嘉孝 東京藝術大学教授

 あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」(以下不自由展)の中止から文化庁の補助金不交付決定まで一連の動向については、すでに多くの人が抗議や懸念を表明している。

東京芸術大学前で開かれた集会。教員や学生、卒業生らが、文化庁があいちトリエンナーレへの補助金を不交付にしたことへ反対の声を上げた=2019年9月27日、東京都台東区
 私の所属する東京藝術大学においても9月27日(金)の夜18時から美術学部正門前で緊急集会が開かれ、直前の告知だったにもかかわらず教員や学生約300名が集まり、この問題について大学前の路上で議論を行った。

 また10月3日付で東京藝術大学教員有志一同42名(その後、賛同者は増え10月5日現在47名)が「文化庁による「あいちトリエンナーレ2019」補助金交付取り消しに対する抗議声明」を発表し、同日萩生田光一文部科学大臣と宮田亮平文化庁長官宛てに声明を送付した。

 東京藝術大学だけではなく東京大学でも同日同様の声明が出されている。大学だけではない。文化や芸術に関連する団体や組織が次々と抗議文や声明文を発表している。この動きは、トリエンナーレ事務局が「不自由展」の再開を発表してからも拡大しており、人々の関心の高さを示すとともに、今回の事件がいかに「異常事態」として受け取られているのかが理解できる。

事実上の「検閲」としての補助金不交付決定

 今回の文化庁の補助金の不交付決定が、事実上の「検閲」であることはすでに多くの人が指摘している。専門家によって審議され、交付が「内定」され、すでに実施が開始されている芸術祭に対して、その内容が時の政権が「気にいらない」からという理由で、交付を取り消すというのは前代未聞である。

 菅官房長官をはじめ政府は、内容を問題視したのではなくあくまでも手続き上の不備であり「検閲にはあたらない」と主張しているが、それ以外の発言を見る限り、政府が「従軍慰安婦」や「天皇制」という内容を問題にしているのは明確だ。

 この決定に対して、交付内定に関わった専門家に意見も聞くこともなく、決定に至った議事録も残されていないという驚くべき事実からも、ごく一部の政治家が政府を私物化し、不交付を決定したという批判を受けてもしかたがないところだろう。
そもそも芸術の現場を知る者にとっては、過去作品でもない限り、申請書を提出する段階ですべてを確定させることなど不可能である。発表の直前になって、すべてを最初から作りなおすということも日常茶飯事である。

 変更のたびに、政府にお伺いをたてて許可を取るとなると、自由な表現活動を自粛させる可能性が極めて高い。今回の不交付の決定を認めると、政府の方針に反する議論に対して事前の実質上の「検閲」が広がっていくだろう。

公的機関は多様な表現をこそ支援すべきだ

 文化庁は、国の機関なので国の方針とは異なる芸術支援を行うべきではない、あるいは税金を投入すべきではないという意見がしばしばみられる。「不自由展」を中止に追い込むきっかけとなった名古屋市河村市長の発言は、こうした意見の典型的なものである。

 しかし、実際に国の政治的方針は、必ずしもすべての国民の意見を代弁したものではなく、相対的に多数の意見を代弁したものにすぎない。むしろ芸術や文化の役割は、主流の政治からは周縁化されたり、こぼれ落ちたりする声をきちんと拾い上げていくことにある。多くの欧米先進国では、1970年代以降多文化主義政策が取られているが、それは政府や地方自治体のような公的な機関こそが、多様な表現を積極的に保障するべきだという理念に基づいている。

 実際、芸術文化の発展の歴史を見ると、社会における多様性、とりわけマイノリティの文化こそが新しい文化のイノベーションの核となってきた。その一方で、第二次世界大戦後の旧社会主義国家や権威主義国家に見られるような過度な文化政策は、短期的には政府にとっては都合のいい芸術作品を生み出したかもしれないが、中長期的には文化芸術の停滞を生み出したことはいまでは、はっきりとしている。

マルセル・デュシャンの「泉」(手前)
 現在、美術史において古典と呼ばれているものの多くは、発表当時は
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