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「心地よいもの」「美しいもの」だけが芸術なのか

あいトリ 日本という国の芸術文化に対する態度が試されている

毛利嘉孝 東京藝術大学教授

公的機関は多様な表現をこそ支援すべきだ

 文化庁は、国の機関なので国の方針とは異なる芸術支援を行うべきではない、あるいは税金を投入すべきではないという意見がしばしばみられる。「不自由展」を中止に追い込むきっかけとなった名古屋市河村市長の発言は、こうした意見の典型的なものである。

 しかし、実際に国の政治的方針は、必ずしもすべての国民の意見を代弁したものではなく、相対的に多数の意見を代弁したものにすぎない。むしろ芸術や文化の役割は、主流の政治からは周縁化されたり、こぼれ落ちたりする声をきちんと拾い上げていくことにある。多くの欧米先進国では、1970年代以降多文化主義政策が取られているが、それは政府や地方自治体のような公的な機関こそが、多様な表現を積極的に保障するべきだという理念に基づいている。

 実際、芸術文化の発展の歴史を見ると、社会における多様性、とりわけマイノリティの文化こそが新しい文化のイノベーションの核となってきた。その一方で、第二次世界大戦後の旧社会主義国家や権威主義国家に見られるような過度な文化政策は、短期的には政府にとっては都合のいい芸術作品を生み出したかもしれないが、中長期的には文化芸術の停滞を生み出したことはいまでは、はっきりとしている。

拡大マルセル・デュシャンの「泉」(手前)
 現在、美術史において古典と呼ばれているものの多くは、発表当時は
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筆者

毛利嘉孝

毛利嘉孝(もうり・よしたか) 東京藝術大学教授

1963年長崎県生まれ。東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科教授。専攻は社会学、文化研究、メディア論。著書に『ストリートの思想――転換期としての1990年代』(日本放送出版協会)、編著書に『アフターミュージッキング――実践する音楽』(東京藝術大学出版会)など。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです