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トリチウム水どうする 社会を一歩進める好機に

漁業者だけに責任を負わせてはならない

小松理虔 地域活動家

 「思い切って放出するほかに選択はない」。

 原田義昭前環境相による、そんな発言を皮切りに、東京電力福島第一原発で増え続け、膨大な数のタンクに保管されている「トリチウム水」の処理方法が議論を呼んでいる。松井一郎大阪市長からは大阪湾への放出論が飛び出し、その後、小泉進次郎新環境相が原田氏の発言についての釈明に追われた。小泉新環境相への注目の高さもあり、テレビや新聞などでも報じられ、SNSにはさまざまな意見が日々書き込まれている。

 世界中の原発で海洋放出されているのだから同様にという意見もあれば、経済的合理性から賛成だとする人もいる。一方、海洋放出は風評被害を引き起こし福島の漁業復興を妨げるから反対だという人もいれば、処理水の安全性は確認されていないという人もいる。それ以前に、本当に適切に処理されているのかを疑う人たちも少なくない。

 筆者も、この問題に強い関心を寄せるひとりだ。福島県いわき市に暮らし、漁業や水産業に関する広報やPR、イベントの企画や商品開発などに関わっている。漁業者ほど当事者性は強くはないが、漁業に間接的に関わる現場の人間として、あるいは、福島の魚を日常的に食べている消費者としての当事者性はある。今回は、その「地元消費者」の目線で、この厄介なトリチウム水について考えてみた。何らかの判断材料になれば幸いだ。

小泉進次郎への引き継ぎを終えた原田義昭・前環境大臣=2019年9月12日、東京都千代田区

漁業者は「陸上保管が前提」

 このトリチウム水問題。最近になって急に議論が盛んになったように見えるが、今になって発生した問題ではもちろんない。国は、有識者とつくる小委員会を設置し、2013年から最終的な処理方法を話し合ってきた。2016年には海洋放出、地中埋設、水蒸気放出など5つの選択肢が示され、それを受けて公聴会も開かれた。そして、今年8月には、漁業者の意向を受け、小委員会が「陸上での長期保管」も含めた議論の継続を確認したばかり。そんな中での「海洋放出ありき論」。現場から強い批判を受けるのも無理はない。

 いわき市内で発行されている隔週刊の独立紙「日々の新聞」10月1日号(第398号)には、福島県漁連の野崎哲会長の次のようなコメントが残されていた。

漁業者に頭を下げる東京電力福島復興本社副代表の隣で、厳しい表情を見せる野崎哲・福島県漁連会長(左)=2015年2月25日、福島県いわき市
 「漁業者はこれまで、サブドレン(注)やバイパスからの放出に協力する過程で、トリチウムの汚染水については『協力するのだから流さないで』と訴え続けてきました。担当部門からは『関係省庁と合意しない限り流さない』という答えをもらっています。小委員会でさまざまな議論を経て結論を出し、国民的議論をしていくことになるわけですから、軽率な、誤解を与える発言は慎んでもらいたいと思っています」。

 科学的に安全なのだから流して良い、国民も納得するというのであれば話は早い。けれども実際には、消費行動や流通への影響を食い止めることはできなかった。原発事故直後、福島県産品は売り場から弾かれたり、震災前のような価格がつかなかったという経験をしている。8年かけて少しずつ慎重に売り場を取り戻し、ようやく再生・自立への道筋が見えてきたところなのだ。トリチウム水の放出で水を差さないでほしいという漁業者の気持ちは強く理解できる。

 筆者も2013年から3年ほど、いわき市内のかまぼこメーカーで広報として働いた。放射線に関して初歩的なことから学び、安全性を伝えなければならなかった。その過程で酷い言葉を投げつけられたこともある。今の福島の漁業・水産業を見ると、よくぞここまで復活したと思わずにいられない。けれども、トリチウム水の海洋放出によって起こるであろう風評被害を打破するための体力は、もう残されていないとも思う。漁業者も水産関係者も疲れ切っている。

 トリチウム水の放出は筆者も現状では反対だ。けれども、いずれは海洋放出するしかないことはよく理解している。では、どういう状況になれば放出を容認できるのだろう。それを敢えて考えてみたのが本稿の役割である。クリアすべき問題がわかってくれば、それほど時を待たなくても放出を許容できるかもしれないし、消費者の側からアクションを起こし、漁業者の傷を小さくできるかもしれない。

(注)サブドレン=1~4号機建屋周辺につくられ地下水をくみ上げている井戸

情報発信の信頼性の問題

 まず大前提として、海洋放出するのであれば、国際的な基準を満たした処理済みの水でなければならない。ところが、本当に処理された水なのか疑わしいのだ。

 2018年、トリチウム以外の放射性物質を取り除いたと説明してきたトリチウム水に、実際にはそのほかの放射性物質(ヨウ素129、ストロンチウム90など)が取りきれずに残っていたことが報じられた(朝日新聞福島県版2018年8月21日付)。敷地内の空間線量を下げるため、除去設備の吸着剤の交換頻度を下げたからだそうだ。であれば、最初から丁寧にそう説明すればいいのだが、公聴会ではそれらを「告知限度濃度以下」と記載した資料を使うなど、隠蔽とも取られかねない対応に批判が集まった。

 問題はそれだけではない。例えば、賠償を求めて住民が申し立てた紛争手続きにおいて、東電は、国の原子力損害賠償紛争解決センターの和解案を拒否し続けているが、この姿勢に対しても強い批判が集まっている。東電という会社全体の原発事故への向き合い方、情報発信のあり方には、常に厳しい社会の目が突きつけられているわけだ。

 だからか、東電の現場にも「どれほど真摯に発信しても信頼してもらえないのでは?」という不安があるのかもしれない。ならば、第三者機関が保管タンクごとに放射線量を測定し、情報を速やかに公開するという手もある。安全性が確認されたものから海洋に放出し、放出後も、第三者機関が海洋調査を行う。そして、その第三者機関を介し、東電の担当者と住民、ステークホルダーとの対話の機会を設けるなど、信頼を獲得していくことが必要ではないだろうか。

福島第一原発沖の放射線量を測定する「うみラボ」の活動。釣り上げたアイナメを掲げる参加者=2015年8月9日、福島県沖

 筆者は、2013年秋から、福島第一原子力発電所沖で、海底土や魚の放射線量を測定して公表する「うみラボ」という民間調査チームに関わってきた。東電の発表は信じられないという人たちが、民間の調査データならセカンドオピニオンとして信頼できるというのを何度も聞いた。第三者機関の検査を受け入れるくらいにガラス張りの発信を心がけ、担当者が地域の集会所レベルのコミュニティまで頻繁に足を運び、住民やステークホルダーとの対話を地道に続ける。そしてそれをオープンにする。信頼回復のための地道な取り組みが必要だ。

漁業の自立が遅れる問題

 トリチウム水の放出が決定すれば、漁業者に補償が行き届くことになるのだろう。しかし、これが福島の漁業の自立を遅らせることになる。いま必要なのは、一刻も早く、福島の漁業を賠償から自立させることだ。トリチウム水をここで流せば新たな賠償が発生し、福島の漁業の再生と自立が遅れることになる。

 漁業の自立・再生が遅れると、高齢化も進み、水揚げ量は回復せず、家庭の食卓だけでなく、地域のスーパーで並ぶ食材、食堂やホテルで提供される食事、地域の食のイベントなど、水産業や観光業に関わる多方面にも影響が及ぶ。福島県の沿岸部全体の「観光」や「地域づくり」にも影響が出てくるということだ。目指すべきは、賠償を増やすことではなく「水揚げ」を増やし、地域の魅力を膨らませることだ。

 ようやく8年かかってここまで来たのである。福島県沖では、これまでの試験操業が事実上の禁漁措置となり、魚を獲らなかったぶん資源量が大幅に回復

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