2019年10月09日
2019年5月末、各メディアで配信されたニュースに驚いた人も少なくなかったはずだ。
厚生労働省は、エボラ出血熱などの危険性が高い感染症の病原体を、今夏にも海外から輸入する方針を決めた。東京五輪・パラリンピックを来年に控え、検査体制を強化するのが狙い。東京都武蔵村山市にある国立感染症研究所の施設で病原体を扱う。30日、地元住民らとの協議会で病原体の受け入れが大筋了承された。
輸入する病原体は、感染症法で最も危険性が高い1類に指定されたエボラ出血熱、ラッサ熱、クリミア・コンゴ出血熱、マールブルグ病、南米出血熱のウイルス。発熱や出血などを引き起こし、致死率が高い。(『朝日新聞』2019年5月31日)
人やものの行き来が活発になると国内に存在しない感染症が持ち込まれるリスクが高まる。グローバル時代の宿命。東京で開催される五輪を観戦しようと世界中から人が集まれば、確かに感染症リスクも高まるのだろう。
だから検査体制を強化するというのは理解できる。しかし国内に新しい感染症が持ち込まれることを恐れているのに、自分から病原菌を持ち込んでしまうという論理がどうもわかりにくい。まるでサッカーの「オウンゴール」のようではないか。
わかりにくいから調べてみようと思った。資料を手繰っているうちに1964年五輪も感染症と無縁だったわけでなかったことに気づいた。
たとえばポリオ(急性灰白髄炎)という感染症がある。日本では1940年代から全国各地で流行が発生、毎年およそ3000〜5000名の患者が出ていた。幼い子どもが罹(かか)りやすく、重症化すると運動神経が侵されて筋肉が麻痺し、呼吸ができなくなって死に至る患者も少なくなかった。治療薬はない。“鉄の肺”と呼ばれていた巨大なタンク状の人工呼吸器に身体全体を入れて九死に一生を得る患者もいたが四肢に麻痺が残ることがあったので日本では「小児まひ」と呼ばれていた。
この病気が60年に北海道夕張市で大流行した。防疫のために陸上自衛隊が出動、総量4万5000リットルもの農薬DDTを散布する大事になった。ハエがウイルスを運んでいると考えられたからだったが、もとはと言えば下水の未整備が原因で、環境中にポリオウイルスが広まっていたことがそもそもの元凶だった。開高健が『ずばり東京』で「ぼくの黄金社会科見学」と題して訪問していた下水処理場は感染症対策の一環として建設が急がれてもいた。
こう書くと読者諸兄の脳裏に浮かぶ疑問があるだろう。治療薬はなくとも予防はできたんじゃないか、ワクチンはどうしたんだ。と。
確かにポリオワクチンはこの時点でも存在していた。53年に米国人ウイルス学者ジョナス・ソークが感染性をなくしたポリオウイルスを用いた不活化ワクチンを作っている。この“ソークワクチン”は日本にも54年4月に輸入され、幼児5名に実験使用されて以来、希望者への接種が続いていた。
だが流行を防ぐには全く数が足りなかったのだ。岸内閣崩壊後に発足したばかりの池田内閣は夕張の流行を目の当たりにし、ポリオ対策の必要性を思い知る。事態は急を要した。ソークワクチンは3回の接種が必要で、効力を十分に発揮させるには2回目と3回目の接種の間に7カ月を空ける必要がある。60年12月からの国会招集を待って審議を重ねてから動き出すのでは夏の流行に間に合わないのだ。
そこで池田内閣は60年11月に閣議了解をもって翌年1月までにワクチンの確保と(効果と安全性の)検定を行うことを定めた「急性灰白髄炎緊急対策要綱」を実施しようとした。これを受けて厚生省は61年末までに必要となるソークワクチンの量を1万8000リットルと見積もり、うち1万1000リットルを国産でまかなう計画を立てた。
実は国立予防衛生研究所(略称「予研」、現国立感染症研究所)が58年から民間業者と共同で製造法の開発にあたっており、国産化ができれば十分な量のワクチンが用意できるはずだった……のだが、60年11月に千葉血清研究所が国産第1号のソークワクチン600リットルを完成させたものの、予研で検定した結果、効力が十分ではないことが分かって不合格に。国産第2号の大阪微生物研究所製造の600リットルも安全性が疑われて不合格となる。
合否の判定を下していた予研も順風満帆からほど遠かった。47年に東大伝染病研究所の一角に設置された予研は55年に品川の旧海軍大学校跡地に移転していたが、ワクチン製造が本格化する中で施設が手狭となり、検定業務に遅れが出るなどの支障を来すようになっていた。
こうして国産化計画に赤信号が灯るなか、61年にもポリオの発生が報告され始める。保健所からの報告を厚生省が集約していたそれまでの体制では患者数の発表まで1カ月かかっていたが、NHKが各地の情報を集計し、即刻報告するようになっていた。この「ポリオ日報」活動についてNHK社会部記者の上田哲(後に日本放送労働組合中央委員長を経て社会党から出馬し、衆参社会党議員となった)が後に著書『根絶』(現代ジャーナリズム出版会)でまとめている。
そこに注目すべき文言がある。ポリオのキャンペーン報道を上田は60年の夕張の流行中に思いついた。そして今後の報道の方針をこう決めたという。
来年もまたニ、三千〜五、六千人の患者は必ず出る。それだけの発生を、十分に予防対策のない去年までなら目をつぶっていたのもやむをえない。しかしもうそうではならないはずだ。なぜなら、すでにわれわれには生ワクチンがある。根絶の可能性まであるこの時期に、もはやいかなる流行も許してはならぬ。そもそも手足が不自由になる子供の数が数万人いれば社会問題だが、数千人では問題ではないという話はない。来年こそは、今まで問題にできなかった数千人という例年なみの患者の数を、あえて“大流行”と大声を叫び上げて勝負することが本当なのだ。今は母親たちと手を携えて力いっぱいたたかうことができるのだ、恐怖を撒くのではない、根絶を目指すのだ。「流行だ、流行だ」と精一杯叫んでみよう。
ソークワクチンは接種した当人の感染は防げるが腸内に生息するウイルスまでは殺せない。その点、生ワクチンは本人の発症予防だけでなく、腸内のウイルス増殖も抑えるので流行の鎮圧まで期待できた。関係者の話を聞いてそれを知っていた上田は生ワクチンこそ“本命”と見込んでいたのだ。
しかし、生ワクチンは政治の影を帯びていた。当時、その最大の生産能力を持っていた国はソ連(ロシア)だったのだ。実際、60年11月にはソ連中央評議会が総評に生ワクチン10万人分を提供すると申し出ている。ワクチンを外交の手段とする、後の中国の“パンダ外交”に近い状況が生ワクチンを巡って繰り広げられていたのだ。
厚生省はこの“善意”の申し出に対して、生ワクチンは日本ではまだ基礎実験の段階で、製造方法や安全性を調べる検定方法も確立されていない。輸入しても使えないという見解を示してストップをかけた。
しかし、それは“赤いワクチン”を受け入れるわけにはいかないというメンツの問題にほかならず、ワクチン国産化が暗礁に乗り上げ、対策において致命的に後手に回りつつあった厚生省としては即効性のある生ワクチンは喉から手が出るほど欲しかった。そんな状況の中で上田は「数千人という例年なみの患者」数であっても「あえて“大流行”と大声を叫び上げ」、本命の生ワクチンに舵を切らせようとしていたのだ。
5月6日には2月に予研に届いていた(ソ連製ではない)英国ファイザー製生ワクチン4700人分を生ワク協議会の医師たちが魔法瓶に詰めて全国に持ち帰り、治験を始めている。
九州に前年の夕張を彷彿させる流行の兆しが見られるようになった5月17日には、閣議で予研に備蓄されていたファイザー製生ワクチン5万人分の放出を決めるとともに、英国に問い合わせてさらに30万人分を緊急輸入し、合計35万人分が26日に九州で“実験投与”されることになる。
しかし、まだ足りない――。
五輪開催を前に小河川の暗渠化や下水整備に弾みをかけようとしていた東京でもポリオは発生した。61年3月13日、東京都中野区で生後11カ月の女児がポリオと診断され
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください