西山良太郎(にしやま・りょうたろう) 朝日新聞論説委員
1984年朝日新聞社入社。西部(福岡)、大阪、東京の各本社でスポーツを担当。大相撲やプロ野球、ラグビーなどのほか、夏冬の五輪を取材してきた。現在はスポーツの社説を中心に執筆。高校では野球部、大学時代はラグビー部員。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
W杯の記憶に残る指導者の姿
W杯の歴史に、深く刻まれた光景がある。
南アフリカ代表のジャージーをまとったネルソン・マンデラ大統領(当時)の姿だ。
1995年6月24日、南アフリカ最大の都市ヨハネスブルクのエリスパーク・スタジアム。
第3回大会の決勝となるニュージーランドと南アフリカの試合に、マンデラ大統領は深いグリーンのジャージーを着て現れた。胸には代表チームの愛称である「スプリングボク」のエンブレムが輝く。頭には同じ緑色の帽子までかぶっていた。まさに南アフリカのサポーターそのままの姿である。
なぜ特別だったのか。それを理解するには、少々長い説明がいる。
1652年にオランダ東インド会社がケープタウンを建設。この国の白人支配が始まった。20世紀に入ると、人種差別を制度化するアパルトヘイト(人種隔離)によって白人支配はさらに進んだ。
これに対抗する黒人の反政府運動は1960年代に広まった。アフリカ民族会議(ANC)などが中心となり、武力闘争が激化していく。黒人暴動が頻発し、86年には政府が全土非常事態宣言を出す事態に陥った。
アパルトヘイトによってスポーツも大きな打撃を受けた。60年のローマ大会を最後に南アフリカは五輪から締め出された。
70年代には、当時五輪競技ではなかったラグビーのニュージーランド代表オールブラックスが南アフリカへ遠征したことにアフリカ諸国が反発。76年のモントリオール五輪をボイコットする騒ぎが起きた。南アフリカが五輪に復帰するのは、91年にアパルトヘイトが撤廃された翌年のバルセロナ五輪のことだ。
同じようにラグビーも国際交流から締め出され、87年の第1回、91年の第2回とも、W杯には出場できなかった。
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