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天皇制と闘うとはどういうことか

融通無碍な鈍感さを許さない政治的・歴史的想像力を奪還する

菅孝行 評論家・劇作家

天皇制は日本に「不可欠」の構成要素か

 近代国民国家における「支配」には三つの位相がある。

 第一が市場原理、第二が<法>を正当性の根拠とする統治、第三が「幻想の共同性」である。第一は資本制、第二が政治権力、第三が、支配の正統性の「内面化」である。支配の正統性の「内面化」とは、支配階級に固有の利害や価値を主権者があたかも普遍性であるかのように受容してしまう倒錯のことだ。第三の位相の「敵」は主権者の集合が制度を支える観念自体だともいえる。

 近代国家の統治形態は、主権者が帰属する国家に抱く幻想の共同性の根拠となる権威の性格によって互いに異なる。フランス共和国は「日々の国民投票」(ルナン)による主権者の連帯であり、大英帝国は英国国教会のキリスト教信仰の共有である。アメリカ合衆国の国民の紐帯は建国精神だが、それはピュリタニズムに裏打ちされている。イスラム諸国の場合は、権力の背後にそれぞれの宗派の「神」が立つ。権威は個人を超えて主権者の集合の幻想となる。

 この幻想は市民社会に対しても規定力をもつ。市民社会は資本制に依拠している。国家の統治は、個々の国民国家の資本制を総括するものでもあるといえよう。

 天皇制は日本近代国家の統治形態の「不可欠」とされてきた構成要素である。天皇の権威は、戦前のみならず現在も、神道に担保される万世一系の神話である。天皇制と闘う目的は、最終的にはこの統治形態を変えることにある。

「日本国憲法公布祝賀都民大会」に出席、熱狂する都民らに囲まれながら皇居に戻る昭和天皇=1946年11月3日、東京・皇居前広場

「明治憲法」体制での天皇の二面性

 明治維新から敗戦までの天皇制では、天皇は統治者であり、軍の統帥権の総覧者であり、国家の最高権威の現人神だった。維新政府は、このイデオロギーで祭政一致国家を作ろうとして失敗し、21年後、「明治憲法」体制の下で、迂回路を通って「万世一系の神の国」という神道信仰を国是の核心に据えた。

 国家の権威の根拠に宗教を据えることの必要性を伊藤博文らは海外視察の経験から痛感していた。欧米のキリスト教信仰に相当するものを彼らは天皇信仰に見出し、これを制度化した。古代を起源とする宗教的権威が世俗の近代国民国家の正統性の根拠となり、日本資本制を政治的に制御する規定力となったのである。

 国民は主権者ではなく現人神の「臣民」とされた。だが、「明治憲法」の三条には天皇の神聖不可侵が謳われている一方、四条には立憲主義原則が書き込まれている。「臣民」向けの理念は絶対不可侵、為政者の統治の実体は制限君主、という二面性がここに読み取れる。

 憲法に書き込まれた「絶対不可侵」のイデオロギーの補強装置として、軍人勅諭や教育勅語、「国体論」や家族国家観が動員され規定力を発揮した。1906年の「神社合祀令」も、習俗を政治に取り込む上で大きな力を発揮した。明治末年には修身教科書が、「臣民」は「陛下の赤子」という刷り込みを広げる手段となった。治安警察法、大逆罪、治安維持法の制定といった法的補完もぬかりなかった。

 1928年の治安維持法「改正」では、国体変革と私有財産否定が、対等に死刑の対象とされた。「国体」はこの国の私有財産制(日本資本制)の守護神ともなったのである。さらに1935年の国体明徴声明では、天皇は統治機関の一部ではなく、統治の主体そのものとされるに至った。

戦後へ延命した天皇制

 新憲法下での天皇は国政に関与する権能をもたない「象徴」と規定されている。それでもこの国は現在でも君主制国家である。君主制国家は国連加盟192カ国のうち30カ国、独立国家群の中でガラパゴス化している。

「日本国憲法公布祝賀都民大会」に集まった人々に、帽子を振って応える昭和天皇=1946年11月3日、東京・皇居前広場
 敗戦後、天皇制が存置された決定的な原因は、アメリカの占領政策にあった。日本を統治するには、日本人の幻想の共同性の核心にある天皇崇敬を温存し、天皇に権威づけられた日本政府に占領政策を執行させるのが最善、とアメリカは判断した。

 加藤哲郎の『象徴天皇制の起源』によると、アメリカは1942年の段階から、占領後、天皇制の存置、主権の剥奪、極東軍事裁判での天皇不訴追など、実際に執行されたのとほぼ同一の占領政策を策定していた。これは「日本計画」と呼ばれた。この対日占領政策は、大戦終結後の冷戦を視野に入れた高度な地政学的判断に基づいている。

 全てはどうすればアメリカの国益に適うかによって判断された。指針ははじめは「民主化」、冷戦激化とともに「反共の防波堤」化、今日の視野から見れば、高度に発達した資本制国家となった後にも、日本が自発的にアメリカの国益に従属するしかない構造を作り出すことだった。

魚心・水心―日本支配層の反応

 「国体護持」を戦争終結の絶対条件として来た天皇と日本政府は、アメリカの構想に飛びついた。米日の野合をいち早く批判したのは、映像作家亀井文夫だった。『日本の悲劇』(1945年)には、軍服から背広に着替えて生きのびる裕仁の映像が捉えられている。GHQはこの作品を直ちに押収し、ネガを破棄した。残っていたポジフィルムから再現された映像には、豹変して延命する天皇の姿が的確に捉えられている。

昭和天皇の「沖縄メッセージ」を批判する那覇市の街頭宣伝。昭和天皇は宮内庁御用掛だった寺崎英成を通じてアメリカに対し「沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している」というメッセージを伝えていた=1989年1月12日、那覇市国際通り
 訴追を免れた天皇裕仁は、国政の権能を失った(1947年5月3日)後もなお、重大な局面で政府の「助言と承認」に基づかない行動を取った。第一が無期限に沖縄を米軍に「貸与」することをアメリカに提案した「沖縄メッセージ」(同年9月、進藤栄一が1979年に発見)である。この罪状は白井聡(『国体論 菊と星条旗』)が言うように外患誘致罪に
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