融通無碍な鈍感さを許さない政治的・歴史的想像力を奪還する
2019年10月22日
近代国民国家における「支配」には三つの位相がある。
第一が市場原理、第二が<法>を正当性の根拠とする統治、第三が「幻想の共同性」である。第一は資本制、第二が政治権力、第三が、支配の正統性の「内面化」である。支配の正統性の「内面化」とは、支配階級に固有の利害や価値を主権者があたかも普遍性であるかのように受容してしまう倒錯のことだ。第三の位相の「敵」は主権者の集合が制度を支える観念自体だともいえる。
近代国家の統治形態は、主権者が帰属する国家に抱く幻想の共同性の根拠となる権威の性格によって互いに異なる。フランス共和国は「日々の国民投票」(ルナン)による主権者の連帯であり、大英帝国は英国国教会のキリスト教信仰の共有である。アメリカ合衆国の国民の紐帯は建国精神だが、それはピュリタニズムに裏打ちされている。イスラム諸国の場合は、権力の背後にそれぞれの宗派の「神」が立つ。権威は個人を超えて主権者の集合の幻想となる。
この幻想は市民社会に対しても規定力をもつ。市民社会は資本制に依拠している。国家の統治は、個々の国民国家の資本制を総括するものでもあるといえよう。
天皇制は日本近代国家の統治形態の「不可欠」とされてきた構成要素である。天皇の権威は、戦前のみならず現在も、神道に担保される万世一系の神話である。天皇制と闘う目的は、最終的にはこの統治形態を変えることにある。
明治維新から敗戦までの天皇制では、天皇は統治者であり、軍の統帥権の総覧者であり、国家の最高権威の現人神だった。維新政府は、このイデオロギーで祭政一致国家を作ろうとして失敗し、21年後、「明治憲法」体制の下で、迂回路を通って「万世一系の神の国」という神道信仰を国是の核心に据えた。
国家の権威の根拠に宗教を据えることの必要性を伊藤博文らは海外視察の経験から痛感していた。欧米のキリスト教信仰に相当するものを彼らは天皇信仰に見出し、これを制度化した。古代を起源とする宗教的権威が世俗の近代国民国家の正統性の根拠となり、日本資本制を政治的に制御する規定力となったのである。
国民は主権者ではなく現人神の「臣民」とされた。だが、「明治憲法」の三条には天皇の神聖不可侵が謳われている一方、四条には立憲主義原則が書き込まれている。「臣民」向けの理念は絶対不可侵、為政者の統治の実体は制限君主、という二面性がここに読み取れる。
憲法に書き込まれた「絶対不可侵」のイデオロギーの補強装置として、軍人勅諭や教育勅語、「国体論」や家族国家観が動員され規定力を発揮した。1906年の「神社合祀令」も、習俗を政治に取り込む上で大きな力を発揮した。明治末年には修身教科書が、「臣民」は「陛下の赤子」という刷り込みを広げる手段となった。治安警察法、大逆罪、治安維持法の制定といった法的補完もぬかりなかった。
1928年の治安維持法「改正」では、国体変革と私有財産否定が、対等に死刑の対象とされた。「国体」はこの国の私有財産制(日本資本制)の守護神ともなったのである。さらに1935年の国体明徴声明では、天皇は統治機関の一部ではなく、統治の主体そのものとされるに至った。
新憲法下での天皇は国政に関与する権能をもたない「象徴」と規定されている。それでもこの国は現在でも君主制国家である。君主制国家は国連加盟192カ国のうち30カ国、独立国家群の中でガラパゴス化している。
「国体護持」を戦争終結の絶対条件として来た天皇と日本政府は、アメリカの構想に飛びついた。米日の野合をいち早く批判したのは、映像作家亀井文夫だった。『日本の悲劇』(1945年)には、軍服から背広に着替えて生きのびる裕仁の映像が捉えられている。GHQはこの作品を直ちに押収し、ネガを破棄した。残っていたポジフィルムから再現された映像には、豹変して延命する天皇の姿が的確に捉えられている。
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