五輪を前に休眠から目覚めたBSL4施設
2019年10月16日
2019年5月に感染症法上の第1類に分類される高病原性のウイルスの持ち込みが発表された国立感染症研究所村山庁舎を訪ねてみた。武蔵村山市は東京都で唯一、鉄道が通っていない市だ。感染研に関しても西武拝島線と多摩都市モノレールが交差する玉川上水駅が比較的近いとはいえ、歩ける距離とは言い難く、路線バスなり自動車なりの世話になることになる。車窓には集合住宅や一戸建ての住宅が立ち並び、ファミレスやドラッグストアが沿道に営業している典型的な郊外の風景が続く。
しかし、ポリオワクチンの検定のために感染研の前身となる国立予防衛生研究所(予研)がここに村山分室を作った時の風景は全く違っていたようだ。
武蔵村山の“特産品”は長く自動車だった。1950年代末には自動車の貿易自由化が秒読み状態だと言われ、自動車メーカーはいずれも量産体制の確立を急いでいた。プリンス自動車(社名は転々と変わっているがここでは便宜的にプリンスで統一する)も59年初めごろから工場用地の検討を開始し、村山、砂川両町にまたがる約40万坪の平地に目星を付けた。「今となっては信じられないが、この広大な土地には人家は牧畜農業わずか一軒しかなかった」(桂木洋二『プリンス自動車の光芒』グランプリ出版)という。当時の村山町は青梅街道沿いに住宅があったが、その南側は表土が薄いこともあって農地化されずに残っていた。予研が分室を作った国立療養所の周辺にも人家はほとんどなかったはずだ。
62年に工場の創業を開始したプリンス自動車は66年には日産自動車と合併して消滅するが、ドラマチックなエピソードを置き土産にしている。村山工場にはトヨタ、日産にもない1.4kmの長いストレートを含むテストコースが造られていた。そこで鍛えた車両の実力披露の場を求めてプリンス技術陣は64年5月に鈴鹿サーキットで開催された第2回日本グランプリに照準を合わせ、市販車スカイラインのボディを延長して、グロリア用6気筒エンジンを無理やり積み込んだスカイラインGTを参戦させる。
レース本線ではこのスカイラインGTがポルシェ904を抜き去ったのだ。ゼロからレース参戦用に開発されたポルシェ904と箱型のファミリーセダンを即席に改造したスカイラインGTとの性能差は明らかだったのでグランドスタンドの観客は首位で戻ってきた“スカG”を総立ちとなって歓声をあげて迎えた。すぐにポルシェが抜き返したのでその英姿は1周しか拝めなかったが、そこで味わった、戦争ではない場所で世界と競い合う興奮はそのまま東京五輪に繋がってゆく。村山工場記念誌『憩いの広場』にはプリンス社員が聖火ランナーや競技役員に積極的に参加し、グロリアが聖火リレーの伴走車両となったことを誇らしげに記している。
この時期、もうひとつ武蔵村山には大きな出来事があった。5階建てアパート97棟が立ち並ぶ都内最大の集合住宅である都営村山団地が建設され、66年から入居が始まり、ピーク時には17万近い人がそこに暮らすことになったのだ。
こうした変化は予研に逆風を吹かせる。
1979年9月、厚生省公衆衛生局員2人が武蔵村山市役所を訪ねた。留守中だった市長に代わって応対した助役に対して厚生省側は予研の村山庁舎にP4施設を建設予定であることを告げた。今ではBSL(Biosafety Level)の語を使うが、この時期はP (Physical containment)の後に数字をつけて「物理的封じ込み=安全性」の程度を示していた。
このP4施設建設に関しては翌80年4月10日の朝日新聞記事に言及されているが「病原体、怖さの番付」と題された記事中に「危険度4の病原体を扱える施設は、目下、厚生省が予研村山分室(東京都武蔵村山市)に建設中」とわずかに触れられている程度で、特段の話題にならなかった。そのまま6月には工事が始まり、81年6月に施設完成。その後、読売新聞の多摩版が10月29日にP4施設について報じ、「毒性や感染性が最強クラス」の病原体を扱う、世界でも米国に2カ所、英国と南アに1カ所ずつしか存在していない特別な施設であるという事実が地元でも知られるようになる。槇敦子「武蔵村山予研P4施設と住民」(『技術と人間』臨時増刊83年6月)はその後の動きを詳細に伝えている。
特にP4施設について強く問題視したのは村山団地の連合自治会だった。
あなたは毒蛇と同じ部屋で
たとえ厳重なオリの中にそれが収容されていたとしても――
同居できますか?! (連合自治会法第七九号)
連合自治会は11月20日に市政懇談会の開催を市に申し入れ、17項目に及ぶ質問表が自治会側から市に提示された。これを受けて市議会は「安全確保がなされるまでは実験開始を控え」「安全確保ができない場合は施設移転を求める」意見書を市として厚生大臣に提出することを決議。厚生省側も手続き上の不備、配慮の不足を認め、実験開始の延期要請を受け入れる。
住民の声が議会を動かした背景には、多摩地区がそもそも市民活動の活発な土地柄だった事情がある。その拠点になったのが多摩に多く造られた大規模団地だった。団地は核家族がプライベートライフを充実させる米国流のマイホームの器としてイメージされるが、建築様式としてはソ連の郊外集合住宅の均質主義に学ぶところが多かった。合理的設計を施された同じ規格の住居が並ぶ団地に暮らすこと自体が平等性への意識を住民に育み、不当な権利侵害に関して抵抗させる気運を生じせしめた。
また団地は、理想と現実のギャップを激しく実感できる場所でもあった。新しいライフスタイルに憧れて住み始めてはみたものの交通の便が整備されていない、幼稚園がない、小学校が足りないなど暮らしにくい。そこで住民たちは自分たちがあげる抗議の声を政治につなげる役割を果たす政党を支持する。たとえば61年に刊行された読売新聞社会部編『われらサラリーマン』には東京と大阪郊外の団地2000世帯にアンケートを実施した結果、革新系政党の支持率が両都市平均で58%となり、保守系の36.8%を大きく凌駕していたことを伝えている。
村山団地完成後の67年の衆議院選挙でも、村山町で最も高い得票率を得たのは社会党だった。同年の東京都知事選挙では社共両党が美濃部亮吉東京教育大教授を、自民党・民社党が立教大学総長・松下正寿を擁立。選挙結果は、23区では美濃部174万票、松下171万票と僅差だったが、多摩17市では美濃部37万票、松下27万票と差がついた。「美濃部都政は多摩から生まれた」と言われる所以であり、さらに踏み込んで美濃部都政は団地が生んだとも言えよう。
もうひとつ、団地の特性をあげるなら、際立って出生率が高かったことだ。たとえば全国平均の出生率が1000人当たり17.2人だった60年に、東京郊外のひばりが丘団地では55人と3倍強に及んだ。前稿でポリオ(小児まひ)の話を書いたが、幼い子供を抱える母親が多かった団地はソ連製生ワクチンの緊急輸入を求める市民運動の拠点となり、ひばりが丘団地でも60年9月11日に「子供を小児マヒから守りましょう」の集いが開かれている(原武史『レッドアローとスターハウス――もうひとつの戦後思想史』新潮文庫)。
口さがない人なら“赤い”団地族が“赤い”ワクチンを求めたと言いそうな構図だが、ポリオ生ワクチン要求運動後に建設された村山団地のP4施設稼働反対運動と繋げてみると別の視点も得られる。
村山町では
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