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オリンピックサーカス興行とスポーツの暗黒物質

そろそろやめませんかお祭り型公共投資

岡崎勝 自由すぽーつ研究所主宰

 「オリンピックってそんなにいいものですか?」と思う。オリンピックに浮かれていて大丈夫なのかと心配になる。オリンピックは矛盾に満ちたモンスターである。その理由を現状に即して、三つの視点で論じてみたい。

オリンピックの東京招致が決定、くす玉を割り万歳三唱する商店街の人々=2013年9月8日、東京都板橋区

 一つ目は、オリンピックは「儲けること」が最優先され他は無視あるいは、犠牲になってもやむを得ないと考えられているということ。IOCとJOCは東京オリンピックのマラソンと競歩の会場を札幌に移そうとしている。賛否は色々あろうが、それは決して「選手ファースト」でもなければ、オーディエンスに配慮してでもない。


 オリンピックが「興行」である以上、開催し実施しなければ投資が無駄になるからである。試合がとりやめになっては困るのだ。オリンピックはサーカスと同じように興行である。やってなんぼの世界なのだ。中止しては儲けが見込めない。すべてはオリンピック組織委員や関連企業にどれだけ利益誘導ができるかを考えての判断なのだ。変更費用は公的資金を投入すればいいとIOCもJOCも考えている。

 二つ目は、オリンピック・スポーツは勝利至上主義を避けることはできないということだ。もともとスポーツは勝利しなくては意味がない。オリンピック興行のような世界大会に参加するトップアスリートはとくに勝利至上主義でなくてはならない。アスリートやかれらの周辺スタッフにとっては、ドーピングですら、「勝利へのあくなき追求」の証である。手段は選ばない。

IOCのバッハ会長=2019年10月17日、カタール・ドーハ

 そして、三つ目。「パンとサーカス」。オリンピック興行は「興奮と感動」をバネにして、政治と社会を操作する。ナショナリズム、同調圧力による統合動員。子どもはもちろんすべての人々を巻き込む。

 つまり、フェアプレイやスポーツマンシップなど崇高な理念は、こうしたダークマター(暗黒物質)の消臭剤か清涼剤程度であり、オリンピックはそれらを振りまきながら国民に「優勝劣敗思想」と「選別差別の正当化」を知らず知らずのうちに教育していく。

オリンピックは興行であり、利益追求のお祭り型公共投資

札幌ドームを視察するJOCの山下泰裕会長。この時点では、サッカーの試合会場としての視察だった=2019年10月1日

 今回の会場変更は、東京の猛暑より札幌市の方がまだましだということのようだ。ただ、札幌市が競技環境として適切かという点においては、だれの保障もない。変更には莫大な費用が要るが、当然のこと公的資金、つまり税金を導入するのだろう。でも、ひょっとしたら来年は冷夏で「東京でやればよかったのに」ということになるかもしれない。

 「東京」オリンピックなのに「東京圏でなくていいのか?」というツッコミもある。マラソンや競歩だけじゃなくて、他にも危うい競技もあるのではないか? トライアスロン、ヨットなど海は大丈夫か? そもそもこの時期の日本でオリンピックをすることが不適切なのだと、だれでも分かる当たり前のことを無視して、「なんでもいいんじゃね」が日本の現状なのだ。
組織委員会をはじめとして、儲けようとする関連企業はそんな「些末」なことより、確実に儲かるでしょうね!ということだけが関心の的である。興行師のIOCもJOCも利益追求のために、国家・都市の予算ではじめた企画と投資だが、自分たちの赤字は許されないということだ。場所取りして役者もそろえてきたのに、ドタキャンはやめてくれということである。放映権料のためには、開催時期など多少の犠牲はしょうがないのだと。楽しむのは欧米の方々ですからね。

 三兆円とも言われるオリンピック経費。お金が動くから景気もよくなるという根拠なきかけ声と、オリンピック以後の経済がとんでもなくひどいものになるという心配に耳をふさいで観戦するのもつらい。大会後の施設維持管理費は毎年億単位の地元持ちになるのでけっこうしんどい。先回ブラジルのリオ大会もその後、負債や経済破綻などでとんでもないことになっている。「日本は大丈夫」と自信を持って言えるのか?と思うが、だれも保障しない。

 節約で簡素なオリンピックを実現するはずだったけれど、そんなことを誰も信用していなかったと思う。だって、それじゃ関連企業は儲からない。IOCもJOCも収益が少なければオリンピックを開催する意味がないからだ。

 オリンピックは「見せるスポーツ」としての興行であり、エンターテイメントなのだ。観客は超人的なプレイを見たいし、それに感動し、興奮したいということだ。

 同じような例をあげれば、プロレスだって見せるスポーツである。昔、ブラッシーが額から血を吹きながら、隠していた栓抜きを凶器にして力道山に向かっていくとき、ボクらはテレビを見て興奮し、それで死人が出るほど「いい試合」だったことを鮮明に覚えている。それにくらべモハメッド・アリと猪木の試合はなんだかつまらなかった。

 また、木下サーカスがバイクの排気ガスを幕張テントの会場に充満させながら大きな金網の球の中をぐるんぐるん走り回っていたのに興奮したし感動した。人間ピラミッドにも驚いた。すごい身体能力だ。ミュンヘンオリンピックの体操で塚原が演じたムーンサルトはサーカスでも十分通用すると思った。

 ボクシングで顔がぐちゃぐちゃになるのを間近で見たときに「スゲー」と興奮してその晩は恐い夢を見た。選手は観客と一体になって興奮して、試合に感動している。

 女子プロレスで、ウェディングドレスを着た選手がすごい形相で本当に相手を殴っているのを見てその迫力に感動した。同時に出演したミゼットプロレスのおもしろさに腹をかかえて笑った。

 スポーツの優れたパフォーマンスに興奮し感動する。人間の限界への挑戦、普通の人間では考えられないくらいの鍛錬と技術、やはりおもしろいし、感動する。しかも、試合中の喧嘩や判定をめぐる選手や監督の抗議さえもパフォーマンスだから見て楽しめる。反則や意地悪なプレイだって、ひたむきな「勝利への熱意」だと感動することがある。

 つまり、オリンピックもほぼプロスポーツの興行であり観客をいかに楽しませるか感動させるかにその価値がある。「人生を豊かにする自分との闘い」なら別にお金を取って見せる必要はない。充実したパフォーマンスを見せることが「見せるスポーツ」の生命線だ。「感動を売っている」のだ。

 だがしかし、オリンピック興行には根本的に「けしからん反則」がある。それは

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