「ホントかなあ、信じられない」
まず、度重なる台風によって被災された地域の皆様にお見舞い申し上げます。
神戸市須磨区の小学校で起きた教員同士の酷い暴行・暴言などのいじめを繰り返していた問題について、書こうか書くまいか、どうしようかずっと考えていた。当初は、大人同士のいじめは珍しくないし、学校でもハラスメントはよく聞く話なので、少し動向を見ていようと思っていた。次々に酷い暴行や暴言が明らかになり、現校長、前校長の会見やコメントも報道され、被害者や加害者のコメントも紹介され、暴行容疑で被害届も出されたようだ。加害者からは反省の色が見えないことからも、職員室で起きたいじめ事案が刑事事件になる可能性が濃厚になってきた。
このことが教育現場に与える影響は大きい。特に、当該校の児童・保護者・地域、そして学校そのものへのダメージは想像を絶する。苦情の電話も数多く、近隣校への迷惑な電話をかける人もいるらしい。こういう時、人のことを言う前に自分のことも考えた方がいいと思う。
そもそも、子どものいじめは大人のいじめを見ているから起こるのだ。差別や悪事も同様。学校で子どものいじめが増加し、蔓延しているということは、大人のいじめが増えていることだとも捉えられる。大切なことは、子どものいじめの認知で判断基準とされる、「いじられた人が、いじめだと感じたら、それはいじめだと言うことだ」、このことは大人にも当てはまる。
相手が楽しんでいるのか、嫌がっているのか、自分本位で考えるのではなく、相手への想像力をもって、ケアの精神をもって関わらなければならない。それができるのが大人なのだと思う。しかし、それができず、自分ファーストな人がいると、ハラスメントやいじめは継続的に起こる。子どもの未来を創る学校では、教職員自身が身をもっていじめの起こらない関わり方を体現しなければならないのだ。教職員には特に、そのようなマインドセットがなければ、どんなに優れた教育も上滑りになって役に立たないどころか、逆効果にもなる。
様々に報道される酷い言動の数々を見て、私も現役の小学校長として考えることを伝えたいと思う。
知り合いの管理職や教員に話を聞いてみると、「ホントなのかなあ。事実が酷すぎて信じられない。」「みんな目を背けたいのか、学校ではあまり話題になりません。言葉にならないという感じです。」「だって教師ならそんなになる前に誰かが立ち上がると思いたいですが…、ならなかったのでしょうか。」「現教頭や現校長は、どのように捉えていたのでしょう。」「事実が歪んでいるのではないでしょうか。」「校長がひっぱってきた力のある女性教師の、力って何でしょう?」等々、感じていることを話してくれた。
確かに、学校現場ではあまり話題になっていないようだ。SNS、ブログ等でも私の知る限りでは、現場からの声は見かけない。あまりにも自分の職場とかけ離れていると感じているのかもしれない。しかし、次のように話してくれた教員がいた。
「職員室で誰も助けてくれない、味方がいない等の報道を聞くと、あそこまで極端で酷い犯罪性はなくても、実はあり得ないことではなく、要素はあちこちにあって、だからこそ、住田さんが言っているカラフルな職員室、ケアの風土が今こそ求められているのだと思います。」
そもそも、そんな人間を教員として採用したことが問題だとか、校長が気に入った教員を呼ぶことができる制度が問題だという話も聞くが、そのことについては私がコメントすることは控えたい。それよりも、現状から考えて、今いる仲間でいかにして壊れない学校づくりをしていくのかが私の主張になると思う。
言い方を変えると、勝てなくても負けない学校経営とも言える。今、拡大とか発展と言うより、緩和や適応が必要とされる世の中になってきているので、学校も緩和と適応という視点で、考えていかなければパンクしてしまう可能性が大きくなってきている。この点においてはどの学校も他人事ではない。