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上映中止に追い込んだ「自覚なき検閲」

上映中止から一転上映へ。KAWASAKIしんゆり映画祭の舞台裏で起きたこと

石川智也 朝日新聞記者

「英断」とは評せない舞台裏

 KAWASAKIしんゆり映画祭で、川崎市の「懸念」からいったん上映中止が決まった『主戦場』が、一転して最終日の11月4日に上映されることとなった。

 ひとまずは朗報である。しかし諸手を挙げて喜べる話では、到底ない。

 あいちトリエンナーレ問題と同様、一連の経緯は、幾つもの疑問と課題と禍根を残したままだ。

 関係者によれば、方針再転換の舞台裏は、英断とはとても評せないものだった。

 10月24日夜に朝日新聞による初報が出て以来、是枝裕和監督が映画祭の舞台挨拶で「あるまじき判断」と声をあげ、若松プロダクションが出品2作品のボイコットを決めるなど、批判の声が高まったが、主催者代表の中山周治氏らは上映中止の判断を変えようとはしなかった。

 潮目が変わったのは10月30日夜、映画祭会場の川崎市アートセンターで急きょオープンマイクイベント「しんゆり映画祭で表現の自由を問う」が開かれて以降だ。

 これは映画祭事務局が催したかたちになっているが、映画祭に作品を出した配給会社の代表・大澤一生氏と、同じく作品が招聘されている映画監督の纐纈あや氏が呼びかけたもので、当然ながら、上映中止撤回を強く求める進行となった。

 予定を大幅にオーバーする3時間のやりとりのなかで、映画祭の幹部である中山代表ら5人の運営委員と、多くのボランティアを含む現場の運営スタッフとの間の意識の乖離やコミュニケーション不足が露わになり、市民の突き上げが激しくなった最終盤には、上映再検討を表明しなければ収拾のつかないような状況になっていた。

 100人もの市民やメディアの前に居並ぶ格好となった代表や副代表は、上映を求める市民の声を「圧力」「言葉の暴力」と表現するほど追い込まれた。

 11月1日の夜にはスタッフ約60人の意思確認が行われ、「期間中に上映すべきだ」との意見が半数を占めた。

 だが上映再決定の発表は翌日に持ち越された。午前10時に公表するはずがさらに午後5時過ぎにまで引き延ばされたのは、『主戦場』の出演者ケント・ギルバート氏や藤岡信勝氏らから「(上映は)絶対容認できない」とする公開質問状が市や映画祭事務局に届いたことで幹部の意思がまた揺らぎ始めたことと、共催相手の意思確認をこの期に及んでやり始めたことが、理由という。

 11月2日正午過ぎに中山代表からスタッフ全員に緊急で出された再度の意思確認メールは、翻意を促したい思いがにじむ内容だった。共催団体と言っても、地元の2大学以外は川崎市のほか市教委と市の外郭団体に他ならない。あくまで市側の意向を気にする映画祭幹部の判断は揺れ動き、最後までどう転ぶか分からない状況だった。

 結果として、もっと早く決定・公表していれば2日夕方に実現した若松プロの『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』の復活上映と主演・井浦新さんの登壇も、叶わなかった。

 今回は意想外の大騒動で振り子が逆に振れた格好になったが、映画祭事務局が、このまま上映を取り下げていたら映画祭の死を意味したということを理解したうえで、作品を守り表現の場を担う覚悟を取り戻したのかと言えば、大きな疑問が残る。

オープンマイクイベント「しんゆり映画祭で表現の自由を問う」で『主戦場』上映中止を決めた理由について説明する中山周治代表=10月30日、川崎市、筆者撮影

川崎市の曖昧模糊な「懸念」

 もうひとつの課題は、「懸念」を表明した川崎市の今回の判断と意思決定過程の検証だ。

 オープンマイクイベントで中山代表は、脅迫や嫌がらせ、安全上の問題が上映中止を決めた主因かのように多くの説明を費やしたが、これは問題の本質のすり替えである。

 映画祭事務局は『主戦場』の配給会社「東風」とかねて会場警備について話し合いを重ねてきた。これまで全国50館以上で上映され大きな問題も起きていない。

 事務局の態度が変わったのは8月5日に川崎市市民文化局市民文化振興室から「市の名前が共催に入っている事業で裁判中の作品を上映するのは厳しい、難しい」と連絡が入ってからのことであり、中山代表も「いままで内容に対して口を出されることはなかった。今回初めて『難しい』という言葉を発せられ、重く受け止めなければならないと感じた」と認めている。

 そして、その川崎市市民文化振興室の田中智子・映像のまち推進担当課長は、10月21日の私たちの取材に、次のように答えていた。

 「上映に介入したつもりはございません。裁判になっているものを上映するのはどうかと……。それ以上のことは言っていません。懸念を伝えさせていただき、最終的には主催者が決めたものと考えています」

 「負担金を半分近く出している立場からの『懸念』を、主催者は大きく受けたのではないか」との問いには「……どう受け止めたかどうかは……わかりません」と言葉を濁した。

 主催者への「懸念」伝達は庁内で話し合った結果の、いわば機関決定だったという。

 では誰が最終的に判断の責任を負い、課長らに指示を出したのかと言えば、曖昧模糊としている。

 田中氏の上司にあたる市民文化振興室の山崎浩室長のコメントは「上映作品を選定するのは映画祭の側。市はこれまでも選定に意見を言ったことはないし、今後も言うことはない」という、気の抜けるようなものだった。

 オープンマイクイベントでも、市の職員は(会場のどこかにいたのかもしれないが)決して表には出てこなかった。こうなると、あいちトリエンナーレへの補助金支出に真っ向から反対した河村たかし・名古屋市長が、いっそすがすがしく見えてくる。

映画「主戦場」ポスターの横に立つミキ・デザキ監督=2019年4月4日、東京・丸の内の外国特派員協会

当事者意識なき「介入」

 もっとも、市の担当者が今回、口頭で、すなわち記録をあえて残さないかたちで、巧妙に主催者に圧力をかけたのかと言えば、少し違うと私は考えている。

 「懸念を示しただけだ」というのはお決まりの逃げ口上であり、隠微な誘導であることは明白だが、オープンマイクイベントで市民らから悪玉のように言われた市の担当者に、おそらく、当事者意識はない。直に相対して取材してみて、それがよく分かった。

 市のとった行動が「介入」なのか「圧力」なのか「検閲」なのかはもはや言葉遣いの問題にも思えるが、担当者たちは、いずれをも自分たちが行ったこととは無縁の概念だと、半ば本気で信じているだろう。

 誰にも、この事態を引き起こしたのが自分たちだという自覚がないのだ。

 この点、数々の「証拠」文書が改竄・廃棄され平気で虚偽説明と「記憶にない」が繰り返された森友・加計問題とは、少し異なる。

 映画祭のゲストとして10月27日に登壇したジャーナリスト金平茂紀氏は「トリエンナーレと同じ構図だが、抗議などなにもない段階で上映が取り下げられており、事態はより深刻。表現の不自由の最新バージョン」と危機感を訴えたが、最新どころか、こうした事態はとっくに起きている。

 2013年7月、想田和弘監督の映画『選挙』の上映会が配給会社と千代田区立日比谷図書館との共催で企画されながら、直前に図書館側が「区から懸念が示された。参院選前にセンシティブな内容の映画を上映することは難しい」と中止を通告してきたことがあった。

 『選挙』は、2005年の川崎市議補選に立候補した自民党公認候補が政策の訴えより地域活動に注力する「どぶ板選挙ぶり」を映し出したものだが、図書館の指定管理者との間では「選挙前にこそぜひ観てほしい」と話が進んでいた。

 一方的な通告に想田監督側は抗議したが、図書館からの上映料支払いは取り消され、逆に配給会社が会場使用料を負担し単独主催で開催することになった。

 千代田区の担当者は取材に「特定の政党を支持しているという誤解を受けかねないと思ったので、気をつけた方がいい、と(指定管理者に)言った。中止は求めていない」と答えた。

映画「主戦場」から。米カリフォルニア州グレンデール市に立つ慰安婦少女像 ©NO MAN PRODUCTIONS LLC

底無しに広がりかねない「凡庸な悪」

 15年前の2004年にも、社会派劇で知られる劇団「燐光群」が名古屋市の外郭団体の市文化振興事業団とともにイラク戦争を題材にした演劇作品の上演を企画したが、やはり直前になって共催を断られた。「イラク戦争は評価が定まっておらず、公平中立が原則の市の外郭団体にはふさわしくない」というのが表向きの理由だった。

 この作品『私たちの戦争』は、イラクで拘束されたジャーナリスト安田純平氏とNGO活動家・渡辺修孝氏の著作を一部取り込んでいたほか、アブグレイブ収容所の捕虜虐待問題や、東京都杉並区の公園トイレに「戦争反対」「スペクタクル社会」などと落書きして建造物損壊で起訴された男の事件も盛り込むなど、〝反戦色〟の強い芝居ではあった。

 が、内情を取材してみると、事業団内部にあったのは「渡辺のような政府に反対する人間を扱う劇は妥当ではない」という判断だった。共催が覆る直前の1カ月ほどの間、渡辺氏は自衛隊のイラク撤退要求のほか、外務省から請求された帰国費用の支払い義務無効を求めて国を提訴していた。

 いずれも私自身が取材して記事化したものなのでよく憶えているが、「中立」「公平」を理由にした、その実は苦情や抗議を恐れての事なかれ的な自粛判断だったというところは共通している。

 そして、だれがこの共催中止判断を行ったのかよく分からない、という点も同じだ。

 「無責任の体系」(丸山真男)などという便利な言葉を解剖刀のように振り回したくはないが、これは日本の意思決定場面で毎度毎度あらわれる、宿痾のような問題と言える。主体が見えず、不透明なプロセスで、物事が「いつのまにか」推移していく。

 当事者たちに自覚と害意はないが、それだけにいっそう危険で底無しに広がりかねない「凡庸な悪」(ハンナ・アーレント)の姿だ。

 今回のしんゆり映画祭問題は上映決定後だったゆえに表面化し大きな騒動となったが、企画段階や前交渉の時点での介入、自粛、萎縮、忖度、自主規制はもはや全国で日常的に起きていると考えるべきだろう。

「映画を観る」ということ

 今回、一部の映画人が声をあげて実際に行動に移す一方で、日本映画監督協会や日本シナリオ作家協会の動きは鈍く、声明も出していない。

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