2019年11月08日
令和になって半年が経つ。5月1日に剣璽等承継の儀により皇位が継承され、10月22日には即位礼正殿の儀が執り行われた。いよいよ令和の時代の本格スタートである。
平成の30年間は、伊勢湾台風以降の昭和後半の30年間と比べ、地震が多発した。震度7の地震は、兵庫県南部地震、新潟県中越地震、東北地方太平洋沖地震、熊本地震の前震と本震、北海道胆振東部地震と6度も起き、死者が200人を超える地震も北海道南西沖地震、兵庫県南部地震、東北地方太平洋沖地震、熊本地震と4度もあった。
いずれも昭和後半には無かったことである。西日本内陸での被害地震の数も多い。南海トラフ地震の準備過程の30年間だったようにも感じられる。今後30年間の南海トラフ地震の発生確率は70~80%と言われており、令和の時代に発生する可能性が高い。
この半年、6月に山形県沖地震が発生し、その後、8月豪雨、台風15号、19号、21号と、風水害に見舞われた。令和の時代も、平成と同様、自然災害の多い時代となりそうである。改めて気を引き締めたい。
令和の2文字は、万葉集第五に収録された「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」からとったとされる。
この歌は、大宰府長官である大宰帥だった大伴旅人(665~731)が、大宰府で催した梅花の宴で詠まれた梅花の歌三十二首の序文にある。大伴旅人は万葉集の編纂に関わった大伴家持(718~785)の父である。梅花の宴は、中国の書家・王義之(303~361)が蘭亭序に記した曲水の宴を模したとも言われる。
「初春令月、気淑風和」は、中国の昭明太子(501~531)が編纂した詩文の選集・文選にある「仲春令月、時和気清」と関りが指摘されている。これは、張衡(78~139)が帰田賦に詠んだものである。
文選は中国の美文の集大成で、遣隋使や遣唐使が日本に持ち帰ったとされている。万葉の歌人たちは、文選を通して中国の古典を学んでいたと想像され、万葉集もこれに影響を受けた可能性がある。
「仲春令月、時和気清」と詠んだ張衡は、稀代の天才だったようで、中国のレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)とも言える。政治家であり、文学者、科学者でもあった。文学者としては、「西京賦」「東京賦」「思玄賦」「南都賦」「思玄賦」「帰田賦」などの詩賦を著した。詩賦とは中国の韻文で、一定の韻律をもち、形式の整った文章のことだそうだ。科学者としては、天文学者として有名であり、天体測定の渾天儀を発明し、「霊憲」という天文書も著した。
地震との関わりでは、候風地動儀という世界初の地震計も開発者でもある。地動儀は壺のような形をしていて、壺の外側に球を口にくわえた龍が8つ取り付けられている。壺の周囲には、口を開けたカエルが8匹配されている。壺の中に柱が立っていて、小さな地震の揺れでこの柱が倒れて龍の口に通した棒を押し、壺の外にある龍の口が開く。すると、龍がくわえている玉がカエルの口に落ちて大きな音を出し、地震を知らせる。球が落ちた方向から、地震の起きた方向を知ることができる。
132年に初めて制作され、138年に洛陽に置いてあった候風地動儀の玉がカエルの口に落ちて音が鳴ったという。後日、1000kmも離れた甘粛省朧西の地震だったことが分かり、話題になったらしい。
大宰府と言えば菅原道真(845~903)を思いだす。学問の神と言われる菅原道真は、870年に官吏登用試験・方略試を受験した。問題は、「明氏族」「弁地震」であり、氏族を明らかにせよ、地震について論ぜよ、の2問が出題された。道真は、「弁地震」に対して、かつて中国で張衡が作った地動儀により遠く離れた地震を検知した、と回答し方略試に合格した。
道真が、600年以上も前の中国のできごとを引用して回答したということは、当時の知識人が中国から多くを学んでいたことを意味する。
地震に関する問いが出題された理由は、当時の活発な地震・火山活動にあったと思われる。道真が方略試を受けた前年の869年に、東北地方太平洋沖地震と類似した貞観地震が起きた。この時期、天変地異が続いていた。863年に越中・越後の地震、864年に富士山と阿蘇山の噴火、868年に山崎断層が活動した播磨・山城の地震、そして869年に貞観地震が起きている。
貞観地震での多賀城(現・宮城県多賀城市)の様子は、日本三代実録に詳しく記されて
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