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村上春樹はアゴタ・クリストフの夢を見るか?

映画『ドリーミング村上春樹』がひそかな人気。翻訳という営為とは。

石川智也 朝日新聞記者

『ドリーミング村上春樹』

「ドリーミング村上春樹」より©Final Cut for Real
 『ドリーミング村上春樹』という小品映画が、封切り1カ月を過ぎても全国のミニシアターで順次上映を続け、ひそやかな人気を集めている。

 村上春樹作品は世界50以上の言語で出版されているというが、この映画は村上文学をデンマーク語に訳している翻訳家メッテ・ホルムの日常を映したドキュメンタリー。カメラは、村上作品ゆかりの上野駅やデニーズ、芦屋などを訪ねるメッテを追い、彼女がデビュー作『風の歌を聴け』と2作目『1973年のピンボール』を訳し終え村上との対談のステージに向かう場面で終わる。村上本人は一度も登場しない。

 メッテは『風の歌を聴け』の有名な書き出し「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」にどんな訳語をあてるか極限まで悩み抜くが、このフレーズはエピグラムのように度々登場し、映画全体を貫いている。翻訳家という黒衣の存在にスポットライトを当て、原理的に絶対的な不可能性に対する挑戦とも言える「翻訳」という営みに観る人をいざなう、希少な作品に仕上がっている。

 本作の紹介記事は他サイトにも山ほど出ているので、ちょっと違った視点でアプローチしてみたい。

『風の歌を聴け』

 翻訳という営為の本質(あるいは実存)は、どんなところにあるのか。

 自らもカーヴァーやフィッツジェラルドなどの訳書を手がけ世界中に読者がいる村上と「翻訳」は切っても切れないが、村上文学は(特に初期作品は)翻訳調だと、むしろ軽侮を込めて言われ続けてきた。

 有名なエピソードだが、村上は『風の歌を聴け』の冒頭を英語で書き、後から日本語に「翻訳」したと明かしている。いったん日本語で書いたものの、自分で読んで面白くなく、心に訴えかけてくるものがない。そこで「小説言語」「純文学体制」といった既成概念から遠ざかるために、あえて捨て身になり、自分の能力からして限られた数の単語と構文しか使えない英語で書こうと試みたという。

 「僕は小さいときからずっと、日本生まれの日本人として日本語を使って生きてきたので、僕というシステムの中には日本語のいろんな言葉やいろんな表現が、コンテンツとしてぎっしり詰まっています。だから自分の中にある感情なり情景なりを文章化しようとすると、そういうコンテンツが忙しく行き来をして、システムの中でクラッシュを起こしてしまうことがあります。ところが外国語で文章を書こうとすると、言葉や表現が限られるぶん、そういうことがありません」(『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング)

 シンプルな言葉と短文を重ね分かりやすく書き連ねていくことで、限られた単語でも立体的で深いものを書けることを発見した。その結果、武骨だがリズミカルで効果的な、あの独自の文体が生まれたということになる。

 村上のこの試みは文体を獲得するための実験の要素が強いが、図らずも、母語(mother tongue)と外国語との関係の本質に迫っている。

 すべての人間は一つの母語圏に生まれ落ちる。親を選べぬように、母語は所与の条件であり、選択の余地はない(例外的に母語を複数持つ者もいるが、与件であることに変わりはない)。母語は無意識の中にまで根付き、まるで身体の一部かのように意識される。我々はある意味で、母語に囚われている。

 しかし、言葉が身体のように自己と完全に一体化した存在かといえば、違う。私たちは他人の体に乗り移ることはできないが、外国語という「外なる」言語を学び、身につけることはできる。外国語を習得しようとする行為は、持って生まれた「自然」から這い出て、それを対象化していくという、人間固有の自由の行使に他ならない。

 そして、異なる文化や集合的記憶を背負った外国語を学ぶことは、他者に対して自分を開いていくことでもある。場合によっては自己のアイデンティティーを揺るがし、時として分裂をも引き起こしかねないスリリングな試みだ。その営為に身を投げ、最も濃厚に、どっぷり生きるのが翻訳、特に文芸翻訳と言える。

 極めて興味深いことに、似たような方法で自分の文体を作った作家を、村上は一人挙げている。ハンガリー生まれのフランス語作家アゴタ・クリストフだ。

「ドリーミング村上春樹」より©Final Cut for Real

『悪童日記』

 1986年、50歳にしての初小説『悪童日記』は、世界の文学界に静かな、しかし強かな衝撃を与えた。日本でも「震駭の一語」(塩野七生)、「肝をつぶした」(江國香織)などと同業者を脱帽させた。不意打ちの平手を頰に浴びせられたような、それほどに強烈な作品だった。

 『悪童日記』は、戦時下の極限を生き抜く双子の少年の記録だ。戦争、占領、暴力、貧困、ホロコースト……そんな非日常が常態化した世界で、「ぼくら」は死体の弾薬を盗み、司祭を脅迫し、祖母を安楽死させ、生き延びる。心理描写や感傷をいっさい排して叙述した非人間的世界が、ネガフィルムのように、かえってヒューマニズムと普遍的倫理を浮き立たせた。極限までそぎ落とされた文体で、いわば表現せずに、ここまで表現し得た作品は極めて稀だろう。

 「彼女は外国語を創作に用いることによって、彼女自身の新しい文体を生み出すことに成功しました。短い文章を組み合わせるリズムの良さ、まわりくどくない率直な言葉づかい、思い入れのない的確な描写。それでいて、何かとても大事なことが書かれることなく、あえて奥に隠されているような謎めいた雰囲気。僕はあとになって彼女の小説を初めて読んだとき、そこに何かしら懐かしいものを感じたことを、よく覚えています」(前掲書)

 もっとも、クリストフにとってのフランス語は、村上にとっての英語よりも、もっとずっと切迫したものだった。

 1956年のハンガリー動乱(革命)時、21歳のクリストフは、反体制運動をしていた夫とともに生後4ヶ月の娘を抱え、両親と兄弟を祖国に残して亡命する。オーストリアを経てスイスのフランス語圏に移送(彼女の言葉で言えば「分配」)され、時計工場での単純労働で生計を立てた。文字通りの難民だった。

 砂を噛むような日常と巨大な喪失感をハンガリー語の詩で綴っても、発表の機会はない。亡命時の仲間のうち2人は望郷の念に耐えきれず投獄覚悟で故国に戻り、4人は自ら死を選んだ。生き抜くために学ばざるを得なかったフランス語を、クリストフは「敵語」と呼ぶようになる。征服の対象という意味だけではない。自分の中の母語をじわじわと殺していったからだ。

 彼女にとってフランス語は決して好んで選んだものではなく、かつてハンガリー国民として押し付けられたドイツ語やロシア語と同様の異物であり、それでいてサバイバルの必要上拒否することのできない存在だった。

 その関係は、村上春樹と類比し難いだけでなく、リービ英雄にとっての日本語、多和田葉子にとってのドイツ語とも、かなり意味合いが異なる。同じく母語ではないフランス語で書きながら、既にチェコで著名だった「亡命作家」ミラン・クンデラとも、その来歴からしてまったく似通っていない。

 クリストフは1995年の来日時、「自分が永久に、フランス語を母語とする作家が書くようにはフランス語を書けるようにはならないと承知している」としつつ、揺るぎない決意で「けれども、自分にできる最高をめざして書いていくつもりだ」と語っている。過去への郷愁に引き裂かれながらも、東欧革命後もハンガリーに戻らず、2011年にスイスのヌーシャテルで死去した。

「ドリーミング村上春樹」より©Final Cut for Real

『ドストエフスキーと愛に生きる』

 『ドリーミング村上春樹』の話からだいぶ隔たってしまったが、翻訳にまつわる映画をもう一作品、最後に紹介したい。

 『ドストエフスキーと愛に生きる』(2009年)。主人公は、ドストエフスキー作品を長年ドイツ語に訳してきたスヴェトラーナ・ガイヤーという翻訳家だ。

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