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村上春樹はアゴタ・クリストフの夢を見るか?

映画『ドリーミング村上春樹』がひそかな人気。翻訳という営為とは。

石川智也 朝日新聞記者

『風の歌を聴け』

 翻訳という営為の本質(あるいは実存)は、どんなところにあるのか。

 自らもカーヴァーやフィッツジェラルドなどの訳書を手がけ世界中に読者がいる村上と「翻訳」は切っても切れないが、村上文学は(特に初期作品は)翻訳調だと、むしろ軽侮を込めて言われ続けてきた。

 有名なエピソードだが、村上は『風の歌を聴け』の冒頭を英語で書き、後から日本語に「翻訳」したと明かしている。いったん日本語で書いたものの、自分で読んで面白くなく、心に訴えかけてくるものがない。そこで「小説言語」「純文学体制」といった既成概念から遠ざかるために、あえて捨て身になり、自分の能力からして限られた数の単語と構文しか使えない英語で書こうと試みたという。

 「僕は小さいときからずっと、日本生まれの日本人として日本語を使って生きてきたので、僕というシステムの中には日本語のいろんな言葉やいろんな表現が、コンテンツとしてぎっしり詰まっています。だから自分の中にある感情なり情景なりを文章化しようとすると、そういうコンテンツが忙しく行き来をして、システムの中でクラッシュを起こしてしまうことがあります。ところが外国語で文章を書こうとすると、言葉や表現が限られるぶん、そういうことがありません」(『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング)

 シンプルな言葉と短文を重ね分かりやすく書き連ねていくことで、限られた単語でも立体的で深いものを書けることを発見した。その結果、武骨だがリズミカルで効果的な、あの独自の文体が生まれたということになる。

 村上のこの試みは文体を獲得するための実験の要素が強いが、図らずも、母語(mother tongue)と外国語との関係の本質に迫っている。

 すべての人間は一つの母語圏に生まれ落ちる。親を選べぬように、母語は所与の条件であり、選択の余地はない(例外的に母語を複数持つ者もいるが、与件であることに変わりはない)。母語は無意識の中にまで根付き、まるで身体の一部かのように意識される。我々はある意味で、母語に囚われている。

 しかし、言葉が身体のように自己と完全に一体化した存在かといえば、違う。私たちは他人の体に乗り移ることはできないが、外国語という「外なる」言語を学び、身につけることはできる。外国語を習得しようとする行為は、持って生まれた「自然」から這い出て、それを対象化していくという、人間固有の自由の行使に他ならない。

 そして、異なる文化や集合的記憶を背負った外国語を学ぶことは、他者に対して自分を開いていくことでもある。場合によっては自己のアイデンティティーを揺るがし、時として分裂をも引き起こしかねないスリリングな試みだ。その営為に身を投げ、最も濃厚に、どっぷり生きるのが翻訳、特に文芸翻訳と言える。

 極めて興味深いことに、似たような方法で自分の文体を作った作家を、村上は一人挙げている。ハンガリー生まれのフランス語作家アゴタ・クリストフだ。

拡大「ドリーミング村上春樹」より©Final Cut for Real

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筆者

石川智也

石川智也(いしかわ・ともや) 朝日新聞記者

1998年、朝日新聞社入社。岐阜総局などを経て社会部でメディアや教育、原発など担当した後、2018年から特別報道部記者、2019年9月からデジタル研修中。慶応義塾大学SFC研究所上席所員を経て明治大学感染症情報分析センターIDIA客員研究員。著書に「それでも日本人は原発を選んだ」(朝日新聞出版、共著)等

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