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原宿の路上で「反天皇制」を叫んだ若者たち

映画『秋の嵐 Harajuku im herbst』、30年ぶりに作品化

瀬木 理 「情況」編集委員

 30年前、「昭和」から「平成」への代替わりの時期に、東京・原宿で「天皇制はいらん」と訴え続けた若者グループがあった。「反天皇制全国個人共闘〈秋の嵐〉」を名乗った彼ら・彼女らの行動を記録した映画『秋の嵐 Harajuku im herbst』(上映時間約90分、〈秋の嵐〉映像製作委員会)が、12月21日、東京都内で上映される。

 映像は当時普及し始めたばかりの家庭用VHSビデオでメンバーが撮影したもので、粒子は粗く手ブレも激しい。いまでこそスマホで動画を撮影するのは日常のことになったが、この時代にマスメディアや記録映画の取材を除いて、当事者たちによって活動の記録が映像で保存されていたのは稀だ。

 監督の犬川犬夫さんは1974年生まれで、30年前はまだ中学生。「反天皇制というと逮捕や衝突といった殺伐としたシーンになりがちだが、映像を見てわかるように、参加していたのは当時20代だったそこらへんの若者たち。普通に生きていた人々の顔が見えるような作品になっているはずです」と語る。

「若者の街」原宿を舞台に選んだ必然性

拡大原宿駅前の神宮橋に座る3人の「昭和天皇」。戦前から戦後への天皇制の連続性を示そうとしたパフォーマンスだという(以下カラー写真は映画『秋の嵐 Harajuku im herbst』から)=1988年12月4日

拡大寸劇 「さよならヒロヒト まだ生きて自粛 こんな私に誰がした!?」=1988年10月30日
拡大キョンシーになった3人の「昭和天皇」=1988年12月4日

 「昭和」の終わりの時期、主に昭和天皇の戦争責任を追及する反天皇制運動は、いまとは比較にならないくらい勢力があり活発だった。60年代末の全共闘運動の系譜を継ぎ、いわゆる新左翼の「正統」ともいえるそうした運動に対して、〈秋の嵐〉のスタイルはいっぷう変わっていた。

 〈秋の嵐〉に参加していたのは、当時10代後半から20代の男女、数十人。学生運動の出身者だけでなく、バンドや演劇の活動をしていたメンバーもいた。昭和天皇が自身の即位後初めて沖縄を訪問しようとして、その直前に体調の悪化で断念した1987年秋に活動をスタート。〈秋の嵐〉という風変わりなネーミングも、その活動開始の季節に由来しているという。

 原宿駅前や代々木公園周辺の歩行者天国(ホコ天)を舞台に、パンクロックのライブで「天皇訪沖阻止」をアピールしたり、軍服、モーニング、病院のパジャマを着た3人の「昭和天皇」がキョンシー(当時流行っていた中国の死体妖怪)になるパフォーマンスを演じたり、〈秋の嵐〉は新左翼とは別のノリの活動を続ける。

拡大昭和天皇が亡くなった翌日。この後、5人の逮捕者が出た=1989年1月8日、東京・代々木公園

 JR原宿駅前から東側の表参道、西へ向かって代々木公園へ延びる「放射23号線」は1970年代から90年代の終わりまで、日曜日ごとに歩行者天国として開放されており、竹の子族、ローラー族といった新風俗を生み出す「若者文化の発信地」とされていた。80年代末は「バンドブーム」で、「THE BOOM」「remote」など原宿ホコ天の路上からメジャーデビューしたバンドもいくつかあった。

 だから原宿の路上で音楽や寸劇を行うことはごく自然なことであったが、実は「反天皇制」と結びつく必然性もあった。いうまでもなく、原宿には明治天皇を神と祀る明治神宮があったのだ。その数日本一といわれる初詣客が、明治神宮の祭神が明治天皇と昭憲皇太后であることを意識することはほとんどないだろうが、1920年(大正9年)に創建されたこの神社が、天皇の神格化を浸透させるために果たしてきた歴史的役割は大きかった。

 昭和天皇は戦後すでに「人間」になっていたが、1987年秋に昭和天皇が倒れて「昭和」の終わりが意識され始めると、その戦争責任をめぐる議論がメディアにも現れるようになっていた。かつて「神」であったことも含めて、天皇と天皇制の負の歴史を追及する場として、原宿はうってつけの場所ともいえた。「反天皇制」を表現する場として原宿の地を「発見」し、運動の舞台に選んだグループは〈秋の嵐〉しかいなかった。

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筆者

瀬木 理

瀬木 理 「情況」編集委員

1965年生まれ。「情況」編集委員。