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小学校はやはり学級担任制で~現役教師からの提言

小学5・6年生を教科担任制にする議論が進む今、子どもを支えるために考えてほしい

明智 千暁 小学校教員

学級担任制がもつ機能

 2019年12月、中教審初等中等教育分科会は、2022年度から小学5・6年生に「教科担任制」を導入する方向で論点を取りまとめた。教科ごとに担当教員が決められ一人の教員が複数の学級で授業を行う、中学・高校で採用されているスタイルだ。

 これに対し小学校では、1人の教員が全てかほとんどの教科を教える「学級担任制」がとられてきた。

 教科担任制導入の背景には、来年度から小学5・6年生は週2時間の外国語の授業が始まることに加えて、プログラミング教育をはじめICTを活用した指導の充実が進められることにより、これまでにも増して高い専門性が求められるようになることが挙げられる。また、働き方改革に伴う教師の負担軽減などもある。

 教科担任制の導入に対する受け止めは、おおむね肯定的だ。

 学級担任制は学校に入って間もない小学1・2年生なら必要だが、学校生活に慣れた5・6年生であれば必ずしも必要ないのではないか。

 教科担任制を採用することで外国語をはじめ、教科の専門性をもった先生の授業を受けられるし、各教科のたくさんの先生たちに見てもらえる。

 教育現場においても、教科担任制が導入されれば受け持つ授業時間が減り、これまで十分に時間をとることのできなかったことに時間を使えると考える教員もいる。自分の家族と過ごす時間を増やせるかもしれない。背に腹は代えられないという思いから、教科担任制を受け入れてもいいのではという気持ちに傾く者もいる。

 しかし、私は現役の公立小学校教員として、学級担任制が5・6年生の子どもたちを支えてきた機能は無視できるほど小さいものではない、と感じている。このまま教科担任制を導入しては、学級担任制がもつ子どもたちのセーフティネットとしての機能が失われてしまうというのが私の考えだ。

 この考えは、実際に学級担任として子どもたちと接してきた中から生まれたものである。

 これまでの学校制度を見直し、よりよい制度を目指していくことは必要だ。だからこそ、教科担任制を導入することによって生まれるメリットと引き換えに、失われてしまうものはないのか、私たちは適切に把握しなければならない。

 この記事では、「つばさ」(仮名)という一人の子どもの物語を通して、現在の学級担任制がいかに子どもたちを支えているかを語ってみたい。

maroke/Shutterstock.com

思いをうまく伝えられない「つばさ」

 数年前の4月、私は5年1組の担任になった。前担任との引継ぎでは、真っ先に「つばさ」という子の名前が挙がった。

 「彼はひとたび怒ると止まらないんです」

 普段は穏やかだが、自分の気持ちが相手にうまく伝わらないと感じると感情的になり、それが長時間続くというのだ。担任として彼とどう関わっていくかを考えることの始まりだった。

 始業式の翌日、つばさは洋服のフードを深くかぶって顔を覆い隠し、まるで卵のように小さく丸くなって教室の隅でしゃがみこんでいた。友だちとけんかをしたのだろうか。声をひそめ、目を真っ赤にボロボロと大粒の涙をこぼし泣いていた。

 私が声をかけると、つばさは一層深く洋服で頭と顔を覆い隠し、微動だにしない。この状態がしばらく続いた。

 さすがにクラスメイトたちも心配して「大丈夫?」と声をかけに行くが、口から出るのは「うるさい!」「関係ないだろ!」の言葉ばかり。そのうち、心配で声をかけてきたクラスメイトに対して八つ当たりを始め、近くにあった机を倒していく始末。

 「机はやめろよ」と周りに言われると、「はいはい。わかりましたよ!」ぶっきらぼうに言ったかと思うと、今度は机の中に入っている教科書やノートを片っ端から引き出し、床にどさどさと落としていく。

 「またか」と言ってその場を離れていくクラスメイトたちの目や言葉からは、面倒くさいやつには関わらないようにしよう、といった諦めのような気持ちが感じられた。

yoshimi maeda/Shutterstock.com

転機

 解決のための足がかりとなったのは、5月、小学校に隣接する幼稚園の5歳児との交流。5年生が育てている稲を見た園児たちが「自分たちも育ててみたい」と、5年生のもとに教わりに来たときのことだった。

 5歳児と対面した5年生の子たちは、「かわいい!」と歓声を上げた。しかしそのあとが続かない。教えるにしても、何をどうしたらいいかわからず立ちすくむ。年下のきょうだいのいる子たちも自分のきょうだいとは勝手が違うようで、なかなか声をかけられずにいる。

 どう接していいか誰もが戸惑う中、つばさが前に出てきて言った。

 「オレが稲の植え方を教えてあげるよ、おいで」

 実にやわらかく自然な表情だった。5歳児たちはまるでカルガモの子のように彼のもとへと歩んでいく。手際は決してよくないが優しく教えているつばさに、園児たちは嬉しそうだった。一同啞然とはこの瞬間を言うのだろう。

 嘘だろう? いつも迷惑ばかりかけているあのつばさが?

 クラスメイトたちはそれまで、「またか」の言葉が示していたように、つばさに対して諦めや否定的な見方になりがちだった。しかしこの時は違う。つばさに対して「すごい」と肯定的な眼差しを向けている。

 クラスメイトたちはつばさのことを完全に見放しているわけではなかった。すごいと思ったことにはすごいと思うことのできる子たちなのだ。この機を逃してはならない。

 交流後すぐに、私はクラスメイトたちの前で「幼稚園の子たちはすっかり安心して、つばさくんと稲を植えていた。寄り添いながら教えてあげたつばさくん、優しいお兄さんだったね!」と彼の行動を絶賛した。

 クラスメイトたちも「つばさ、普段とは別人だったよ」「おまえ、すごいな」などと声をかけていた。やはりつばさのよさを感じていたのだ。

 つばさは顔をくしゃっとさせ、照れくさそうにしていた。

 この日以降つばさは、自分にとって嫌なことがあっても気持ちの切り替えをするまでの時間が以前より少し短くなった。それは小さな変化であったがクラスメイトたちは感じ取ったようで、「つばさ、いっしょに遊ぼう!」と声をかけて誘う回数が目に見えて増えた。

点と点がつながる

 変化の兆しは見えたとはいえ、トラブルはすぐになくなるものではない。休み時間にはフードをかぶってうずくまるつばさの姿は依然としてあった。そのたびに私は声をかけ、いっしょに解決方法を考えた。

 10月のある日、15分間の休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、私は校庭で一緒に遊んでいた子たちと3階の教室へと戻った。次の3時間目は国語だ。用意していた教材を取り出そうとしたところ、隣の学級の子が「先生、図書室でつばさが泣いていたよ」と教えてくれた。

 またか……。様子を見に行ったら3時間目の始まりには間に合わないかもしれない。でも、放っておくわけにもいかない……。

 私は、学級の子たちが自分で取り組める漢字の書き取りの課題を出し、隣の学級の先生に事情を話し、つばさのいる1階の図書室へと向かった。

 つばさはフードを深くかぶり、部屋の隅にうずくまって泣いていた。

 「休み時間に何があったの?」
 「オレが、『ちょっとタンマ』と言っているのにアイツらがしつこかったから言い返した」
 「言い返さずに済む方法があるといいのだけど。その場は我慢して先生の所に来るとか。家でイライラしたときはどうしているの? やっぱり言い返すの?」

 家ではどうしているの?という質問はこれまでに何度もしてきたが、つばさは答えられずに黙りこんでいた。きっと今回も同じ反応を見せるだろう、と思っていた。

 しかしこの日は思いも寄らない答えが返ってきた。

 「そんなことしたら母さんと姉さんに倍にして返されちゃうよ。それに泣いているのがバレると「泣き虫」と余計に怒られたり挑発されたりしちゃうから、涙が出ちゃいそうなときはお風呂場に行って冷たい水のシャワーを浴びる。それで気分転換する」

 私は目を丸くしてしまった。答えが返ってきたことに対してだけではない。家での姿をつばさが語ったのは初めてだったからだ。

 つばさは両親と8歳上の姉の4人で暮らしていた。家の中でケンカをすると一番年下のつばさに勝ち目はない。言い返そうものなら倍返しが待っている。それならば我慢したほうがいい。でも我慢すると涙が込み上げてくる。家族に泣き顔を見られたら怒られてしまい自分の感情が爆発してしまう。

 それを防ごうと彼は、家では浴室のシャワー、学校ではフードをかぶって顔を隠していたのではないだろうか。フードをかぶって隅にいるのはいじけているからではない。感情の爆発を抑えようと必死にコントロールしていたのだ。

 私は大変な思い違いをしていたと気づいた。

 つばさは、自分の気持ちを相手にうまく伝えられないのではなく、言い返すと言い返されてしまう経験から、伝えることをやめて我慢する道を選択した。しかし学校には、家の浴室のように一人で心を落ち着けるための場所はない。せめて少しでもとフードをかぶり、隅っこでうずくまるも、感情が高まっているときのつばさには、心配して声をかけるクラスメイトの声でさえも刺激と感じられてしまう。結果、感情は爆発してしまうという悪循環に陥ってしまっていたのだ。

 このことに気づくと、それまでの情報が私の中で次々とつながっていった。

 そういえば先週の算数の時間、「この問題に出てきた「水」って冷たいのかな。冷たい水がオレは好き」と話していた。水の温度や好みは問題を解くためには全く関係ないので取り合わなかったが、つばさのことを理解する上では重要な意味をもっているのではないか。

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 この気づきはつばさの話がきっかけとなって生まれたが、前年度の学級担任からの引き継ぎ情報のほか、半年間つばさを含むクラスの子たちと過ごした時間も大きい。

 前担任から聞いていた「フードをかぶる」という事実。

 しばらくすると落ち着いて戻ってくることを知っていたクラスメイトたち。

 学級担任である私は、そうした姿を自分の目でも確かめながら、つばさに対して様々なアプローチを試みてきた。どの言葉なら反応するか、あるいはしないのか。特定の友達からの言葉であれば彼の心に届くのか。国語や算数など授業時はもちろん、休み時間や給食、掃除、放課後の時間における彼の言動も、大切な情報であったのだ。

 この日を境に、私はつばさに、イライラしたときには水道で顔をバシャバシャと洗ってみてはどうかと提案するようになった。

 冬に近づくほど水に触れると手がかじかんでしまうが、冷たい水であることはつばさにとって好都合。「あー、気持ちいい!」と言いながらにっこり。2学期の終わる12月には、フードをかぶってうずくまる姿は見られなくなっていた。

 感情の高まりを抑えるための解決手段として、彼は水で顔を洗うことを選ぶようになっていった。

心のとびらが開かれる

 2月のある日、登校してくるなりつばさはいつもと比べて明らかに眠そうだった。目の下には大きなクマ。1時間目の授業中にはあくびどころか、ぐっすりと眠り込んでしまうほどだった。

 何かあったな、と直感した私は、授業中にはあえて声をかけずそのままにし、授業後にある5分間の休み時間に話を聞くことにした。

 「どうしたの? ずいぶんと眠そうだったね」
 「昨日眠れなかったんだよ。いろいろあって」
 「何があったの?」
 「今はみんながいるから言いたくない。みんなが帰ってからなら話してもいいよ」

 この日の放課後には職員会議がある。3月の卒業式や来年度の入学式などの重要な議題が予定されていた。子どもたちを時間通りに下校させれば、会議が始まるまで10分間は時間をとれる。

 「わかった。じゃあ、放課後にしよう」

 そして放課後、彼はゆっくりと話し始めた。

 「昨日の夜、久しぶりにお父さんがお酒を飲んで帰ってきた。お酒を飲むとお父さんはいつもイライラしている」
 「何時に帰ってきたの?」
 「それはわからない。俺もお姉ちゃんも寝ていたから。お父さんとお母さんがケンカしている声が聞こえてきて目が覚めたんだ」
 「そういうとき、オレはいつもお姉ちゃんと寝たふりをして聞いていた。お父さんが包丁を取り出したときとか、危ないと思ったら寝言を言うんだ。そうするとおさまるから」
 「包丁を取り出した時があったの?」
 「オレが小さかったころだけどね。昨日はお姉ちゃんが起きて、お父さんを止めに行って。そうしたら今度はお父さんがお姉ちゃんとケンカを始めたから、まずいと思ってオレが寝言を言ったの。そうして終わらせた」
 「学校とかで、オレが怒りで自分でもよくわからなくなっちゃうとき、お父さんみたくなっているんだと思うときがあるよ。いろいろ考えていたらあんまり眠れなかった」
 「初めて話したよ。すっきりした。今まで言いたいと思った時もあったけれど、言うチャンスがなかったし、うまく言えないとも思って面倒くさくなって、結局言えなかった」

 つばさはこの日、これまでずっと心の中にしまっていた思いを語った。「言いたいと思った時もあったけれど」「結局言えなかった」と話していた。

 この言葉は何を意味するのだろう。

 当初、つばさはクラスメイトから「面倒くさいやつ」と思われ否定的な眼差しを向けられていたが、肯定的な眼差しを受けるようになったことで、学級を居場所と感じられるようになっていった。それは、つばさにとってイライラして過ごす時間が減ることでもあり、以前よりも落ち着いて学校生活を送れるようになることであった。安心して過ごせるようになった結果、この日つばさは自分自身を見つめて語り始めたのではないだろうか。

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 もちろん、つばさの語ったことすべてが事実であるかどうかはわからない。つばさの見聞きしていない出来事もあるだろう。しかし、彼自身がそのように感じてこれまで生活してきたことは紛れもない事実である。(念のため、公共の家庭支援相談施設に報告をし、何か動きがあった時にはすぐに必要な支援が受けられるようにした。幸いその後、家庭で大きな問題は起こっていない)

 つばさに対して学級担任が行ってきた支えは日常的に行われるものであり、決して特別なものではない。彼が語ったこの日も、普段から登校してきたときの様子を見ているから、いつもと比べて明らかに眠そうであり、何かあったに違いないと感じられた。

 教科担任制では多くの場合、日々の登校時の様子までは知ることが難しいため、1時間目から眠り込むつばさに対する働きかけはおそらく変わっていただろう。

 つばさはその後6年生に進級すると、入学してきた1年生のお世話を張り切って行い、1年生からも「つばさお兄ちゃん」と親しみをこめて呼ばれるなど人気者であった。つばさが卒業する日が近づいてくると1年生は大号泣。「卒業しないで」と言われ、つばさは涙ぐんでいた。

 苦手だった学習にも、「オレ、これまでの分を取り戻せるかな」と言いながら、前向きに取り組むようになった。現在は第一志望の高校に入学し、「勉強も水泳も充実しています」と高校生生活を満喫していると話してくれた。

学級担任の役割とは何か

 学級担任は、子どもに対して指導する・教えることに加えて、支える役割をもっていると私は考える。

 つばさは当初、安心して教室にいられる状態になかった。彼は自分の気持ちをわかってもらいたかったが、家庭での経験もあり、言葉で伝えるよりも我慢することを選んでいた。そして我慢が限界に達すると感情が爆発してしまい、その結果クラスメイトとの関係がうまくいかないという悪循環に陥ってしまっていた。

 そうしたつばさを支えるために私は、クラスメイトたちがつばさに対して否定的な眼差しを向けるのを変えていく必要があると考え、機会をうかがっていた。奇しくもその絶好の機会はつばさ自身によってつくられた。園児と交流するつばさの姿にクラスメイトたちは度肝を抜かれ、つばさに対して肯定的な眼差しを向けていくことへとつながった。

 それは、つばさはもちろん、クラスメイトたちにも学級が安心して過ごせる場所へと近づくことであった。一人の子を支えることは、学級にいるすべての子を支えることでもある。

 子どもたちを支えるための方策として、全国の小学校でスクールカウンセラーの配置が進んでいるが、課題はある。

 スクールカウンセラーが来校するのは週に1、2回程度、それも全校児童・保護者からの相談を受け付けているのが現状だ。そうなると必然的に、より支援が必要な児童らに重点が置かれるため、支えを必要としている子どもすべてをカバーすることは難しい。

 さらに、スクールカウンセラーと学級担任の間で情報を共有し連携をはかることが欠かせないが、その時間をどのように確保するのか、時間的な問題が生じる。スクールカウンセラーだけですべての子を支えることは難しいのだ。

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 子どもたちは学級が安心して過ごせる場であることを求めている。そのために学級担任は、子どもたち一人一人の姿に目と耳と心を傾ける。つばさが算数の時間に「冷たい水がオレは好き」とつぶやいた言葉が大きな意味をもっていたように、授業の時間、休み時間や給食、掃除の時間など様々な時間を共に過ごす中で、子どもが何を必要としているのかを見出していく。教科担任制を採用すれば、今と比べて子どもたちと接する時間がどうしても減ってしまうため、子どもたちを支える働きは小さくなってしまうだろう。

 つばさが学級を居場所と感じられるようになったとき、彼はそれまで表に出さずにいた自分の心と向き合い、そして開き始める。心は他者が外から無理やりこじあけるようなものではない。自分から開くものだ。

 彼が心の中にしまっていた家庭での出来事は、語られたことで直接解決するようなものではないが、話をすることで自分の気持ちを整理し「すっきりした」へとつながった。

 言いたいのに言えない、困っているのに話せない、そのような苦しさを抱える5・6年生は決して少数ではない。

 学級担任は、そうした子どもたちに話をさせたいというわけではない。心の扉は内側から開かれる。その子が話したいと感じた時に話せる環境であることが大切だと考えているのだ。

教科担任制のゆくえ

 つばさのように、学級担任制によって支えられている子どもがどれだけ多くいるのか知ってほしい。

 支えを必要としているのは目立った行動をする子に限らない。穏やかな子、いつも明るく元気にしている子の中にも、支えを必要としている者はいる。ゆえに今、学級担任制のもつ子どもたちを支える働きを、皆で共有したいのである。

 来年度から週2時間行われる外国語の指導など、専門性をもった教員による指導は重要であり、時間外労働の膨らむ教員の負担を軽減していくことも大切である。そのための制度の転換によって、子どもたちが安心していられる居場所が失われる危険はないのだろうか。

 教員定数を増やすための予算がつかない現状では、教科担任制に伴って増える教員は非常勤講師である可能性が濃厚だ。非常勤講師は、勤務時間が限られており、授業以外の場面で子どもたちと関わることは難しい。教科担任制を導入した結果、非常勤講師が入れ替わり立ち代わり来るような形での運用になれば、教員が子どもたちを支える機能はますます失われる。

 子どもたちを支えるためには十分な時間が必要なのだ。非常勤ではなく、子どもたちと毎日接することが可能な常勤での採用が実現すればこの問題を最小限に抑えることができるだろう。

 「当たり前」の支えがあることで落ち着いて学習に取り組める子どもたちがいる。どんなにパソコンやタブレットが支給され、ICT環境が整ったとしても、それを活用する子どもたちが安心して学校生活を送ることができてこそ。教科担任制を導入するのであれば、教科担任の多くが常勤になるように環境を整えるべきである。