「らしくない態度」を責めたてるトーン・ポリシング
2019年12月28日
ジャーナリストの伊藤詩織氏が、元TBSの記者でワシントン支局長であった山口敬之氏から性的暴行を受けたとして訴えていた裁判で、東京地裁は伊藤氏の主張を認め、山口氏側に対して330万円の支払いを命じた。
東京地裁は「酩酊状態にあって意識のない原告に対し、合意のないまま本件行為に及んだ事実、意識を回復して性行為を拒絶したあとも体を押さえつけて性行為を継続しようとした事実を認めることができる」とし、山口氏による「合意があった」という主張を一蹴。その上で山口氏の供述に対しては「不合理に変遷しており、信用性には重大な疑念がある」と指摘した。
その後、山口氏はこの判決を受けた会見の中で「本当に性被害に受けた人から聞いた」という文脈で「本当に性被害に遭った方は『伊藤さんが本当のことを言ってない。こういう記者会見の場で笑ったり上を見たり、テレビに出演して、あのような表情をすることは絶対ない』と証言して下さったんです」と述べ、伊藤氏の態度は嘘をついている態度であると主張した。
さて、不思議なのだが「本当の被害者であれば、あんなことをしない」というならば、なぜ、女性に「性的被害をでっち上げられた被害者」であると主張しているはずの山口氏は、メソメソ泣いて会見をしていないのだろうか?
信頼して一緒に酒を飲んで、更に倒れたところを介抱してあげて、更には愛し合ったにもかかわらず、後からさもレイプ犯であるかのように主張されたとしたら、僕なら裏切られたことが悲しくて、毎日枕を濡らして過ごすことになるだろう。
ところが、山口氏は涙の跡一つもなく会見に挑んでいる。山口氏の主張が本当なら、被害者である山口氏自身があのような、良く言えば堂々とした、悪く言えばふてぶてしい態度でいられるはずがないのである。
彼は本当に被害者なのだろうか? 僕には山口氏が本当の被害者であるとは思えないのだ。
と、当てつけのような解釈をしてみたが、このような「被害者らしくない態度だから、その人は本当の被害者ではないだろう」という批判は、どのようにでも作り出すことができるし、なんとでも言い換えることができる。
山口氏は「記者会見で笑った」ということを本当の被害者ではない理由として述べたが、これと同じように、もし被害者が泣いていれば「涙で同情を誘おうとしている!」と言い換えることができる。
他にも怒っていれば「冷静な状態ではないから不愉快。誰も感情的な人の話など聞こうとしない」。そして冷静でいれば「どうして被害に遭ったのに冷静でいられるのか?」と、いくらでも「本当の被害者ではないという証拠」を被害者の態度から「創作」することができるのである。
こうした被害者批判のやり方はフェミニズム界隈では「トーン・ポリシング」と呼ばれており、特に「女性は理性的ではなく、感情的だ」という、うっすらとした女性差別を持ち合わせている人たちが用いる性差別であるとして批判されている。
これは日本だけではなく世界的にも同じ傾向で、環境活動家のグレタ・トゥーンベリ氏に対する過剰な反発には、トーン・ポリシングがあると見られている。
しかし、こうした批判の手法は決して「女性だから、感情的であることそのものを批判される」という、女性にばかり向けられる特有の手法というわけではない。そうではなく、男女関係なく気に入らない相手を貶めるための手段として用いられている。
この手法は、批判に対して具体的な反論や対応をする必要はなく、ただその相手に悪印象を持たせればいいだけの場面でよく使われる。すなわち、状況を改善しなければならない立場の人間に対して、状況を改善しなくてもいい、もしくは現状のままのほうがいいと考える人間が行う手法なのである。
なので、基本的にはマジョリティが、改善要求を行うマイノリティに対して使う手法となる。こうした手法が用いられるのは、例えば貧困問題がある。
生活保護受給者の生活を見て「割引シールの貼られた国産牛肉を買っているのは本当の貧困者ではない」とか「殻が赤い卵は白い卵より高い。買っているのは本当の貧困者ではない」とか「キーボードの練習にBluetoothキーボードを使っているのは本当の
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