小笠原博毅(おがさわら・ひろき) 神戸大学大学院国際文化学研究科教授
1968年東京生まれ。専門はカルチュラル・スタディーズ。著書に『真実を語れ、そのまったき複雑性においてースチュアート・ホールの思考』、『セルティック・ファンダムーグラスゴーにおけるサッカー文化と人種』など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
オリンピックは「やり方」ではなく、「やること」が間違っている
『いだてん』が終了した、王道の大河ドラマとして。複雑なストーリー構成、そこかしこに張り巡らされていた伏線、役者の過剰な演技、大河のようなゆったりとした流れに慣れていた、そしてそれを期待していた人からみれば、いろいろな批判や非難や揚げ足取りをしたいのだろうが、『いだてん』はこれまでのNHK大河ドラマをしっかりと踏襲していた。
大河ドラマでは、まず役者が本気で素晴らしい演技をする。脚本が面白く、ちゃんとした役者がちゃんとした演技をすればそれはいいドラマになる。演技が過剰かどうかなど、その「ちゃんと」の基準次第でどうにでも評価できることだ。
もはや今後、嘉納治五郎について考えるときは役所広司の顔が浮かぶだろうし、五りん(神木隆之介)の少し浮きがちな芝居も、小泉今日子ら芸達者がしっかり脇を固めていたと思う。川島正次郎(浅野忠信)に五輪運営の主導権を奪われた田畑政治(阿部サダヲ)は、「オレはどこで間違えた」と過去を振り返る。そして、かつて高橋是清(萩原健一)の眼前で「政治がスポーツを利用すればいい」と口にしてしまったことを思い出す。
その時の阿部のハッとした表情とショーケンの乾いた笑い方には、思わず鳥肌が立った。狂言回し役の晩年の志ん生がビートたけしというのだけ最後まで違和感を拭えなかったが、病室で仮病がバレてしまう件は、たけしならではのボケが効いていたのだろう。
しかし一方で、大河ドラマはやはり男子の物語になってしまうという点が物足りなかった。『草燃える』、『おんな太閤記』、『花の乱』、『春日局』、『八重の桜』、あとは忘れてしまったが、これらの数少ない例外を除いて、大河は結局ほぼ男たちの物語で占められてきた。
金栗四三(中村勘九郎)や田畑政治を始め、主要人物の妻や母たちはやはり、物言うとはいえ夫を支え続ける妻や、小うるさいが愛情あふれる母の役割を果たす、重要だがあくまでも脇の役に落ち着いていた。
女子体育の礎を築いた二階堂トクヨ(寺島しのぶ)、金栗の生徒村田富江(黒島結菜)、シマちゃん先生(杉咲花)、「東洋の魔女」川西昌枝(安藤サクラ)をはじめ、全体の役の半数近くを女性が占めていたにもかかわらず、鬼の大松(徳井義実)最後のセリフは、「お前ら嫁にいけ」だった。
決定的なのは、数多い女性の中でも最も光る演技を見せていた人見絹枝(菅原小春)が、最終回の回想シーンで現れなかったことだ。アムステルダムでの人見絹枝を見せずして、なにが『いだてん』か?
そして大河ドラマは、登場人物や出来事を虚実取り混ぜ、主人公にありえないものを「期待」させることで、現代の世界とは切り離された歴史物語を作り上げる。
戦国から安土桃山時代なら「戦乱の世を終わらせる天下統一」や「民のための平和な世」、幕末なら「身分のない自由な世界」や「世界に追いつく日本」。若者の成長や人間模様の背後には、このような大きな物語が用意されているのが大河の常道だ。
ポイントは、主人公たちが求めていたものが、本当にそういうものなのかどうかには頓着せず、そのとおりには実現できないものでもあるにも関わらずそういうものとして、いわばすでに視聴者がイメージしやすい「なんとなく」常識化された路線に軌道を合わせていくような物語進行になってゆくということである。
フィクション・ドラマなんだから当たり前ではある。歴史考証は必要だが、歴史に忠実である必要はない。そもそも歴史に忠実であるとはどういうことか? 新たな史料の発見や解釈によって、またはシュレッターの力を借りて公文書を処分することのできる時代の強者の都合によって、歴史は常に書き換えられる。
『いだてん』の場合それは、国際政治や商業化からできるだけ距離を取る「スポーツの祭典」だった。人種や民族の垣根を超える「友情と平和の祭典」。しかし金栗や田畑が『いだてん』の中で求めた五輪は、現代世界においてもはや存在しない。もはやありえない、現代となんのつながりもない、時間を止められた歴史の話として、『いだてん』は立派な大河ドラマだったのだ。
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