平山昇(ひらやま・のぼる) 神奈川大学准教授
1977年長崎県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。立教大学兼任講師、九州産業大学地域共創学部観光学科准教授などを経て神奈川大学国際日本学部国際文化交流学科准教授。著書に『初詣の社会史 鉄道と娯楽が生んだナショナリズム』(東京大学出版会、第42回交通図書賞受賞)、『鉄道が変えた社寺参詣』(交通新聞社新書)など。
自明ではなかった「天皇+神社」の結びつきを絶対化させた歴史の皮肉
まず、明治神宮を東京にもうけようという運動が起こった過程をみておきたい(今泉宜子『明治神宮 「伝統」を創った大プロジェクト』、山口輝臣『明治神宮の出現』)。
1912年7月30日、明治天皇の「崩御」が速報されるとすぐに、渋沢、阪谷芳郎(渋沢の娘婿、東京市長)、中野武営(東京商業会議所会頭)を中心として東京実業界の重鎮たちが終結して「明治天皇の陵墓を東京に!」と運動を起した。ところが、8月1日に陵墓は「先帝の御遺志」により京都(桃山)に内定していることが宮内省から公表され、運動体の目標は「明治天皇を祀る神宮を東京に!」へとシフトした。
そこで神宮の鎮座地が問題となるが、大隈重信が青山に神宮を建設して「一大公園地」にせよと主張するなど、まずは大喪の儀の会場となる青山練兵場が候補として浮上した。ところが、この案に対して公園と神社との聖俗混淆は不可とする反論が新聞に出たことをうけて、渋沢らが組織した「神宮御造営奉賛有志委員会」は、神宮は「内苑/外苑」から成り、内苑は国費で代々木御料地に、外苑は献費で青山練兵場につくる、とする「覚書」を作成した。
なぜ彼らは青山鎮座案への反対論に対して「青山ではなく代々木に」とはせずに、あくまでも青山をひっくるめた「覚書」をつくりあげたのだろうか。
実は、明治天皇の「崩御」は、この二つの土地を会場として「明治50年」(1917年)に開催予定だった日本大博覧会が中止となったばかりのことであった。運動体が打ち出した「覚書」には、博覧会計画を下敷きにしたうえで、青山練兵場という広大な軍用地を都市開発のために恒久的に活用しようとする東京実業界の思惑があったのである。
実際に、その後明治神宮創建が確定すると、「神宮御造営奉賛有志委員会」の面々はほとんどそのまま外苑造営を担当する明治神宮奉賛会へと横滑りすることになった。渋沢はその副会長として外苑建設のための寄付金募集に精力的に取り組んでいく。
もっとも、運動体を突き動かしたのが土地をめぐる思惑だったからといって、彼らが明治天皇を敬慕していたことまで否定するのは行き過ぎであろう。ただしその心情が、京都への対抗心とも絡んでいたことは見落としてはならない。維新後「帝都」であり続けた東京の人々にとって、陵墓が京都に〝奪われた〟というショックは相当なものであった。
なかでも渋沢の脳裏には、ある記憶が蘇ったはずだ。1895(明治28)年の第4回内国勧業博覧会である。内国勧業博は第3回まですべて東京の上野で行われていたが、第4回は平安遷都千百年を記念して京都で開催してもらいたいとする誘致活動が起こった。当時東京商業会議所会頭であった渋沢は、これに猛烈に抗議したが通らず、結局京都での開催となった。3度にわたって東京で開催してきた内国勧業博を京都に奪われた。今度は天皇陵まで京都に奪われて
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