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「明治神宮をつくった男」渋沢栄一の葛藤

自明ではなかった「天皇+神社」の結びつきを絶対化させた歴史の皮肉

平山昇 神奈川大学准教授

明治神宮鎮座100周年

 今年(2020年)は明治神宮外苑ゆかりの地に建設された新国立競技場を主会場として東京でオリンピックが開催される年であるが、東京・代々木の明治神宮(内苑)で鎮座祭が行われてからちょうど100周年にあたる年でもある。

 1920(大正9)年11月1日の午前からおこなわれたこの鎮座祭には、原敬首相をはじめとする政財界の主だった面々が数多く参列した。鎮座祭のあとは正午から東京府主催の奉祝会、夜には明治神宮奉賛会会長の徳川家達が主催する晩餐会が開かれた。

初詣でにぎわう現代の明治神宮。初詣参拝客数は例年300万人を超え、全国最多を誇る

内苑と外苑に対する渋沢の〝温度差〟

 ところが、この記念すべき日に姿が見えない人物がいた。渋沢栄一である。

 「日本資本主義の父」とも称される渋沢は明治神宮を創建する運動を推進した中心人物であり、明治神宮奉賛会の副会長として外苑のための献金募集に尽力した大功労者であったが、この日は体調不良のため自宅に「引籠」っていた(以下、渋沢については主に『渋沢栄一伝記資料』による)。体調不良によるやむをえない欠席だったのであろうが、奇妙なことに、これにかぎらず渋沢は内苑造営の節目となる行事をほとんど欠席している。鎮座祭後も内苑を訪れることはめったになかった。しかも、内苑についてほとんど語ってもいない。

 一方で、渋沢は、神社以外の記念施設がもうけられた外苑については、地鎮祭も奉献式も参列している。また、外苑の明治聖徳記念絵画館には壁画を献納したが、これに深い思い入れを抱いていたことは彼の発言から明らかである。

 新1万円札の顔になることや2021年NHK大河ドラマの主人公になることが決まるなど、今や渋沢顕彰ブームのまっただなかである。その渋沢が造営に尽力した明治神宮が鎮座100周年を迎えるとあって、今年は「明治神宮をつくった渋沢」を礼賛・美化するストーリーが大量に流通することになるだろう。

 だが、上でみたように、明治神宮にかかわる渋沢の行動や発言をたどると、彼のなかには内苑と外苑に対する〝温度差〟があったことがみえてくる。渋沢が強く関心を持ち続けたのは、絵画館やスポーツ施設など「文明・進歩」を体現した外苑のほうだった。それはいったい何を意味するのだろうか?

東京実業界の思惑――軍用地の都市整備への転用

 まず、明治神宮を東京にもうけようという運動が起こった過程をみておきたい(今泉宜子『明治神宮 「伝統」を創った大プロジェクト』、山口輝臣『明治神宮の出現』)。

 1912年7月30日、明治天皇の「崩御」が速報されるとすぐに、渋沢、阪谷芳郎(渋沢の娘婿、東京市長)、中野武営(東京商業会議所会頭)を中心として東京実業界の重鎮たちが終結して「明治天皇の陵墓を東京に!」と運動を起した。ところが、8月1日に陵墓は「先帝の御遺志」により京都(桃山)に内定していることが宮内省から公表され、運動体の目標は「明治天皇を祀る神宮を東京に!」へとシフトした。

 そこで神宮の鎮座地が問題となるが、大隈重信が青山に神宮を建設して「一大公園地」にせよと主張するなど、まずは大喪の儀の会場となる青山練兵場が候補として浮上した。ところが、この案に対して公園と神社との聖俗混淆は不可とする反論が新聞に出たことをうけて、渋沢らが組織した「神宮御造営奉賛有志委員会」は、神宮は「内苑/外苑」から成り、内苑は国費で代々木御料地に、外苑は献費で青山練兵場につくる、とする「覚書」を作成した。

 なぜ彼らは青山鎮座案への反対論に対して「青山ではなく代々木に」とはせずに、あくまでも青山をひっくるめた「覚書」をつくりあげたのだろうか。

1926年ごろ、空から見た明治神宮外苑の施設群。明治天皇の大喪が行われた青山練兵場跡地に内務省明治神宮造営局が建設した。明治神宮外苑野球場(神宮球場)の左上、画面中央が明治神宮外苑角力場(現・神宮第二球場)。その左上が明治神宮外苑競技場。右は聖徳記念絵画館、野球場の手前は女子学習院(現在は秩父宮ラグビー場)、左は近衛歩兵第四連隊。神宮外苑競技場は1957年に取り壊され国立競技場(国立霞ケ丘陸上競技場)に建て替えられ、1964年東京五輪のメーン会場となった。

 実は、明治天皇の「崩御」は、この二つの土地を会場として「明治50年」(1917年)に開催予定だった日本大博覧会が中止となったばかりのことであった。運動体が打ち出した「覚書」には、博覧会計画を下敷きにしたうえで、青山練兵場という広大な軍用地を都市開発のために恒久的に活用しようとする東京実業界の思惑があったのである。

 実際に、その後明治神宮創建が確定すると、「神宮御造営奉賛有志委員会」の面々はほとんどそのまま外苑造営を担当する明治神宮奉賛会へと横滑りすることになった。渋沢はその副会長として外苑建設のための寄付金募集に精力的に取り組んでいく。

京都への対抗心

 もっとも、運動体を突き動かしたのが土地をめぐる思惑だったからといって、彼らが明治天皇を敬慕していたことまで否定するのは行き過ぎであろう。ただしその心情が、京都への対抗心とも絡んでいたことは見落としてはならない。維新後「帝都」であり続けた東京の人々にとって、陵墓が京都に〝奪われた〟というショックは相当なものであった。

 なかでも渋沢の脳裏には、ある記憶が蘇ったはずだ。1895(明治28)年の第4回内国勧業博覧会である。内国勧業博は第3回まですべて東京の上野で行われていたが、第4回は平安遷都千百年を記念して京都で開催してもらいたいとする誘致活動が起こった。当時東京商業会議所会頭であった渋沢は、これに猛烈に抗議したが通らず、結局京都での開催となった。3度にわたって東京で開催してきた内国勧業博を京都に奪われた。今度は天皇陵まで京都に奪われて

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