「いのちの分断」が進む社会で生きるのに必要な「参加することに意義がある」への異議
2020年01月19日
2020年となった。オリンピック・パラリンピックイヤーを迎え、東京の街は活気づいている。その日のために日々鍛錬を続けるトップアスリートの活躍は、多くの人に感動を与えるに違いない。かつて、「スポ根ドラマ」に涙した私は、この夏の感動にひそかに期待を寄せている。
だが、そんなオリンピックイヤーが「相模原・津久井やまゆり園事件」の初公判(1月8日)と共に始まったことは、偶然と言えばそれまでだが、私には「ある時機」を感じさせた。
2016年7月、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」が、当時26歳の元職員に襲撃され、19人が殺され、26人が負傷した。戦後最悪の凶悪事件に社会は震撼した。だが、この事件の闇は被害者の数に留まらない。
私は、この事件の闇を「確信犯」に見る。
「確信犯」は、「悪いと解っていて罪を犯すこと」と理解されることが多いが、それは正しくはない。「確信犯」とは、「自分が正しいこと、意義のあることをしていると確信して行われる犯罪」を意味する。
この事件の犯人は何を「確信」していたのだろうか。あの虐殺にどのような「意義」を見出していたのだろうか。
彼は「障害者は不幸を作り出すことしかできない」「障害者は生きる意味のないいのち」と主張していた。税金を使って彼らを生かしておく余裕はこの国にはなく、障害者を殺すことが、「日本と世界の経済のため」になると「確信」していたようだ。
言葉でコミュニケーションをとることが出来ない人を「心失者」と呼んだ。そして、話せない人だけを選別し殺した。「誰かれなく、片っ端から殺した」わけではない。そこにあるのは、「生きて良いいのち」と「生きてはいけないいのち」の分断だ。
彼は「生きる意味のないいのちを殺すことが、社会のためになる」と「確信」していた。
「生きる意味のないいのち」は、1930年台後半にナチスが障害者抹殺計画において用いた「生きる価値のないいのち」を彷彿(ほうふつ)とさせる。しかし、逮捕された後、この青年が著した手記によると、彼はナチスが障害者を殺したこと自体を知らなかったようだ。私は、当初「日本にもネオナチが現れた」と思ったが、そうではなかった。
あの「確信」はナチスの受け売りではなく、戦後日本社会の中で醸成された。これは日本オリジナルのナチズムなのだ。
このような事件が起きると、私たちは「一人の異常な青年による犯行」として片づけたがる。だが、それでは事件の本質を見誤る。
事件の一報に触れた時、「ついに来た」と私は思った。
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