周囲の状況への対応が早い貪欲な賢人。「月見草」「毒舌」にも戦略的な狙いが。
2020年02月17日
「月見草」、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」、「生涯一捕手」など、150年近い日本の野球史の中でも、野村克也氏ほど球界の枠を超えて人々の記憶に深く刻まれる言葉を残した人物は少ない。
一方、私生活の様子が広く知られ、毀誉褒貶が激しく、「好き」と「嫌い」が明らかに分かれるという点でも、他の球界関係者に比べて野村氏が突出していることは周知の通りだ。
「契約金なし」のテスト生としてプロ球界に入り、戦後初の三冠王となり、監督としても「名将」、「智将」の名を手にした野村氏。その球界での足跡を振り返りつつ、野村氏とはいったいどんな存在だったのか考えてみたい。(以下、敬称略)
高級な腕時計や背広、ネクタイを愛用し、外国製の高級車に乗っていた生前の姿からは思いもつかないかも知れないものの、野村は貧家の出身であった。
1954年、野村は野球では無名の京都府立峰山高等学校を卒業し、契約金なしのテスト生として南海ホークスに入団する。しかし、当時の野村は捕手としては肩が弱かった。しかも入団1年目は1軍の公式戦に9試合出場しただけ、2年目は2軍の試合のみのであったため、球界での道のりはほとんど閉ざされていたかのようであった。
しかし、2軍時代の野村は握力を向上させるためにテニスボールやゴムボールを絶えず握ったり、肩の弱さを補うため配球術に工夫を凝らしたり、後年の野村を象徴する「頭を使う野球」を自ら実践していた。
こうした努力に加え、1954年に高橋ユニオンズが発足したことによる捕手の放出、温暖なハワイで行われたキャンプにより入団直後に痛めた肩が回復したことから、1956年に正捕手となると、持ち前の打撃力を活かし、1957年に初めて本塁打王を獲得したのだった。
その後、1965年には日本のプロ野球では戦後初の三冠王に。最終的に、通算で首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回を記録する球界を代表する大打者となった。特に1963年に記録した52本塁打は、2001年にタフィ・ローズ(近鉄バファローズ)が55本塁打を記録するまで、37年間にわたってパシフィック・リーグの最多記録であった。
また、捕手としては、対戦相手の情報を綿密に分析し、検討を加えることで相手打者の特徴や傾向を踏まえた効率的な配球を行い、一時代を築くことに成功した。
こうして順調な道のりを歩いてきた野村は、1970年に選手兼任監督となることで、文字通りホークスを代表する存在となったのである。
1973年のリーグ優勝を含め、8年間の監督在任中4位以下が2回と安定した成績を残した野村が辛酸をなめることになるのは、1977年のことだった。
同年10月5日、大阪市内で行われた記者会見に姿を現した野村は、その冒頭で「鶴岡元老の圧力で吹っ飛ばされた」と発言、会場を騒然とさせる。
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