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ヘラジカ「ムース」の称号こそがふさわしい野村克也の野球人生

周囲の状況への対応が早い貪欲な賢人。「月見草」「毒舌」にも戦略的な狙いが。

鈴村裕輔 名城大学外国語学部准教授

拡大妻・沙知代さんについて時折笑みを浮かべて話した野村克也さん=2019年3月14日、朝日新聞東京本社

 「月見草」、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」、「生涯一捕手」など、150年近い日本の野球史の中でも、野村克也氏ほど球界の枠を超えて人々の記憶に深く刻まれる言葉を残した人物は少ない。

 一方、私生活の様子が広く知られ、毀誉褒貶が激しく、「好き」と「嫌い」が明らかに分かれるという点でも、他の球界関係者に比べて野村氏が突出していることは周知の通りだ。

 「契約金なし」のテスト生としてプロ球界に入り、戦後初の三冠王となり、監督としても「名将」、「智将」の名を手にした野村氏。その球界での足跡を振り返りつつ、野村氏とはいったいどんな存在だったのか考えてみたい。(以下、敬称略)

無名の高校野球部からプロ球界へ

 高級な腕時計や背広、ネクタイを愛用し、外国製の高級車に乗っていた生前の姿からは思いもつかないかも知れないものの、野村は貧家の出身であった。

 1954年、野村は野球では無名の京都府立峰山高等学校を卒業し、契約金なしのテスト生として南海ホークスに入団する。しかし、当時の野村は捕手としては肩が弱かった。しかも入団1年目は1軍の公式戦に9試合出場しただけ、2年目は2軍の試合のみのであったため、球界での道のりはほとんど閉ざされていたかのようであった。

 しかし、2軍時代の野村は握力を向上させるためにテニスボールやゴムボールを絶えず握ったり、肩の弱さを補うため配球術に工夫を凝らしたり、後年の野村を象徴する「頭を使う野球」を自ら実践していた。

 こうした努力に加え、1954年に高橋ユニオンズが発足したことによる捕手の放出、温暖なハワイで行われたキャンプにより入団直後に痛めた肩が回復したことから、1956年に正捕手となると、持ち前の打撃力を活かし、1957年に初めて本塁打王を獲得したのだった。

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筆者

鈴村裕輔

鈴村裕輔(すずむら・ゆうすけ) 名城大学外国語学部准教授

1976年、東京生まれ。名城大学外国語学部准教授、法政大学国際日本学研究所客員所員。法政大学大学院国際日本学インスティテュート政治学研究科政治学専攻博士課程修了・博士(学術)。専門は比較文化。主著に『メジャーリーガーが使いきれないほどの給料をもらえるのはなぜか?』(アスペクト 2008年)、『MLBが付けた日本人選手の値段』(講談社 2005年)がある。日刊ゲンダイで「メジャーリーグ通信」、大修館書店発行『体育科教育』で「スポーツの今を知るために」を連載中。野球文化學會会長、アメリカ野球愛好会副代表、アメリカ野球学会会員。

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