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抵抗は義務か? ゲオルク・エルザーと尹奉吉

三一独立運動から日韓の友好交流 へ

田村光彰 元北陸大学教員、尹奉吉義士共の会会長

 3月1日は、日本による朝鮮植民地支配に対する全民族的抵抗を示した三一独立運動の開始と大韓民国臨時政府樹立(上海)101周年にあたる。

 現在、日韓の国家間の関係が最悪の状態に陥っているが、その根源は日本が植民地支配を反省していない点にあると思われる。無数の諸問題から、ほんの一例を取り上げ、ドイツと比較したい。

堤岩里とオラドゥール 二つの虐殺事件

三一独立運動と堤岩里虐殺

拡大堤岩里教会での住民虐殺を描いたソウル・タプコル公園のレリーフ

 三一独立運動への弾圧の代表例は、水原郡の堤岩里(チェアムニ)虐殺事件(現在の京畿道華城市)である。

 日本政府自身が報告した「堤岩里騒擾事件」によれば、日本軍歩兵第79連隊有田俊夫中尉は、天道教徒とキリスト教徒が秩序を乱しているとして、両教徒の検挙威圧の目的で、部下11名を率いて、1919年4月15日、堤岩里に到着した。

 「両教徒20余名をキリスト教会に集め、射撃を命じ、ほとんど全員を射殺した」(注1)。さらに放火して30数名を虐殺した。だがこれだけでは終わらない。民家三一戸に放火、15部落三一7戸を焼き払い、死者39人を出した「采岩里の惨事」。水原郡狩川で銃と放火で教会と民家34戸を焼き払った「狩川の惨事」。会堂の十字架上に縛り付け、殴打し、死傷者を出した「ソウル十字架の惨殺」。少なくとも全国で13以上の惨事、虐殺が検挙威圧の目的で記録されている(注2)

(注1) 姜徳相『現代史資料26、朝鮮(2)』みすず書房、1967、P.316
(注2) 丁堯燮『韓国女性運動史』(高麗書林)1975、P.85~94

宇都宮太郎大将日記

拡大宇都宮太郎大将の日記。堤岩里事件の処理をめぐって「事実を事実として処分すれば尤も単簡なれども」「虐殺、放火を自認することと為り、帝国の立場は甚しく不利益と為り」とある

 三一独立運動の時に朝鮮軍司令官であった宇都宮太郎・陸軍大将は、膨大な日記を残した。彼は、堤岩里虐殺事件の後始末を側近らと共に相談、虐殺の事実は認めず、隠蔽することに決めた。事件3日後の日記を引用する。

 「(有田)中尉は同村の耶蘇教徒(キリスト教徒)、天道教徒30余名、耶蘇教会内に集め二、三の問答の末其の32名を殺し、同教会および民家20余戸を焼却せるの真相を承知す」「事実を事実として処分すれば最も簡単なれども、このような状態では(略)外国人等に虐殺放火を自認することとなり(略)帝国の立場は甚だしく不利益とな」る。したがって「抵抗したという理由で殺戮したるものとして、虐殺放火等は認めざることに決定し」た(1919.4.18 日記)(注3)

(注3) 宇都宮太郎関係資料研究会編、編集責任 吉良芳恵、斎藤聖二、桜井芳樹『日本陸軍  とアジア政策 陸軍大将宇都宮太郎日記3』岩波書店、2007.12.20、P.245

ナチスドイツのオラドゥール・シュル・グラン村での虐殺

 日本が戦略物資・資源を求めてアジア諸国を軍事力で支配し植民地にしたように、日本と同盟国のナチスドイツもヨーロッパを軍事占領した。

 1943年、日本が南太平洋で敗北を重ねるのと同じ頃、ナチスドイツは、ソ連戦線で敗戦に転じる。米、英、中国、オランダを中心とする連合軍は攻勢に転じ、44年6月6日、北フランスのノルマンジーに上陸し、ここから南に向かって、フランスを占領中のナチスドイツと対峙する。

 一方ナチスドイツは南下する連合軍を迎え撃つために、南からノルマンジーに向けて北上する。ナチス親衛隊からなる「第2SS装甲師団」は、北に向かう途中、フランスの村々で無抵抗の村民・市民の大虐殺を行った。オラドゥール村では、ナチス親衛隊は、爆発物や自動小銃、手投げ弾などで武装し、村の男性を納屋に閉じ込め、無差別機銃掃射で殺害。さらに、人質として集めた女性や子どもを教会に閉じ込め、火を放ち、焼き殺した。

 642人の村人が虐殺され、女性は254人、子供は207人を数えた。生存者はわずかに6人。虐殺の理由付けは、「村人が抵抗運動(レジスタンス)を匿い、武器を隠している」であった。しかし、フランス調査団の検証により、レジスタンスも武器も存在しないことが明らかになった。狙いは堤岩里と同様に、レジスタンスの弾圧、検挙威圧であった。

日独の戦後反省

 ここまでは、両国の植民地主義と残虐さはほぼ同じである。しかしこれ以降は、異なる。

 日本軍の有田俊夫中尉の行動は、宇都宮太郎の思惑に反し、外国人宣教師たちに知れわたり、日本の軍法会議で裁かれた。だが宣告(判決)は「無罪」。のみならず、その後、調査も一切行われず、「堤岩里の虐殺」は、今も記憶されないままである。

 一方、ドイツでは、1983年、東西ドイツの分裂時代の東ドイツで裁判が行われた。虐殺の生存者が出廷した。ハインツ・バールト元武装親衛隊中尉は、「戦争犯罪への加担」と「人道に対する罪」で終身刑が言い渡された。死刑のない東ドイツでは、最高刑である。

 西ドイツは1979年、国会決議で「謀殺罪」について時効を廃止した。ナチスによる犯罪は、永遠に逃さず、許さないという決意の表れである。ドルトムント市には、ナチス犯罪を専門的に追及する検事局の「中央センター」が設置された。東西ドイツの統一後、現在もなお、オラドゥール事件は、ここで捜査が行われている。

 センターは、2013年段階でナチス親衛隊の6人の名前をつきとめ、14年、元ナチス親衛隊員1名(88歳)を起訴。村民25人の殺害に関与したほか、数百人の殺害を手助けした疑いである。事件後75年以上が過ぎた現在でも、ドイツではナチス犯罪は裁かれ続けている。

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筆者

田村光彰

田村光彰(たむら・みつあき) 元北陸大学教員、尹奉吉義士共の会会長

1946年生まれ。埼玉大学(生化学)卒業、金沢大学大学院(独文学)修了。著書に『抵抗者 ゲオルグ・エルザーと尹奉吉』(三一書房)、『統一ドイツの苦悩』(技術と人間社)、『ナチスドイツの強制労働と戦後処理』(社会評論社)など。