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よど号50年 革命を夢見た代償を支払い続ける人生

時代の空気に押されるように飛び立った9人のその後

雨宮処凜 作家・活動家

 人生初の海外旅行は北朝鮮だった。

 1999年、24歳の頃だった。当時フリーターだった私はいわゆるサブカルクソ女で、トーク居酒屋・新宿ロフトプラスワンによく行っていた。そこでやっていた赤軍派のイベントで、もう21世紀も目前だというのに「世界同時革命」とか言ってる元赤軍派議長・塩見孝也氏に出会ったのだった。

塩見さんに命を預ける形で、私は平壌に飛んだ

拡大清瀬市議会選挙に立候補した塩見孝也氏の選挙運動。左から鈴木邦男氏、筆者、塩見氏、平野悠氏=2015年4月25日、東京都清瀬市

 20年近い監獄生活を終えてシャバに戻ってきて10年ほどの塩見さんはまだ70年代を生きていて、若者を見かけるたびに「平壌へ行こう!」と手当たり次第に声をかけまくっていた。私もそんなふうに声をかけられた一人だった。その、どんな宗教の誘いよりも危険な誘いに私は「行きます!」とふたつ返事でOKした。面白そうというだけの理由だ。

 赤軍派のイベントに行ったのも、そんな気持ちからだった。当時の私はフリーターで何もなくて何者でもなくて、ただいかんともしがたい生きづらさをこじらせていた。そんな時、テレビで目にした学生運動の映像にシビれた。彼らが何を目指して何を言ってるかさっぱりわからなかったけれど、数十年前に自分と同世代の若者たちが怒り、叫び、デモをしたり火炎瓶を投げたりして何かに逆らっている様子に衝撃を受けた。

 私の中にも、そんな衝動は確実にあった。あったけれど、そもそも何に怒っていいのか、そこから皆目わからなかったし、当然火炎瓶の作り方もわからなければそれを投げるべき先もわからなかった。その上、恋愛と買い物以外の話をできる友人なんて、一人もいなかった。ただ、自分の中に怒りはあった。しかし、それはいつも自分に向かい、リストカットという自傷行為となった。親世代が若者だった頃の怒りが、自分ではなく「外部」に向いていることに驚いた。革命とか、そんなことよりもなぜ彼らは手首を切らずに生きていられたのか、そのことに興味があった。

 そうして出会った塩見さんに命を預ける形で、私は平壌に飛んだ。今考えると、元赤軍派議長の誘いに乗って初めての海外旅行で北朝鮮に行くなんてどう考えても無謀すぎる。しかも塩見さんは「よど号グループ」に会いに行くというのだ。

 遠い昔、ハイジャックした学生たちがいるというのは知っていた。その時に彼らが放ったという「我々は明日のジョーである」という言葉もうっすらとだけど知っていた。彼らが何を目指していたかは知らなかったけれど、「革命」を目指してハイジャックまでしてしまうスケールのデカさと時代の空気は、世紀末の日本からあまりにもかけ離れていてめまいがした。

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筆者

雨宮処凜

雨宮処凜(あまみや・かりん) 作家・活動家

1975年、北海道生まれ。フリーターなどを経て2000年、半生をつづった『生き地獄天国』(太田出版、ちくま文庫)で作家デビュー。フリーターや派遣社員、若年ホームレスなどを取材した『生きさせろ!~難民化する若者たち』(太田出版、ちくま文庫)で、08年の日本ジャーナリスト会議賞受賞。著書に『ロスジェネのすべて 格差、貧困、「戦争論」』(編著、あけび書房)、『この国の不寛容の果てに』(編著、大月書店)など多数。