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近代五輪初の延期 東京五輪は21年7月23日、パラは8月24日開幕

真価問われる、開催理念「スポーツの力」

増島みどり スポーツライター

国際オリンピック委員会のバッハ会長との電話協議に臨む安倍首相(中央)=2020年3月24日夜、首相公邸、内閣広報室提供

シュートを誰も打たない膠着状態から、延期というラストパスへ

 IOC(国際オリンピック委員会)バッハ会長と、安倍首相の電話会談で延期が決定して6日目の3月30日夜、組織委員会・森喜朗会長、バッハ会長、小池百合子都知事、橋本聖子五輪相の4者が緊急電話会談を行い、東京2020オリンピック・パラリンピックの延期後の日程は21年7月23日から8月8日(17日間)、パラリンピックは8月24日から9月5日(13日間)に決定したと発表した。新型コロナウイルスの世界的な感染拡大のため、近代五輪124年の歴史で初の延期となった東京五輪は、決定からわずか6日で再スタートした。

 反対に、延期決定までのプロセスは、サッカーの試合にも例えられるだろう。責任と書かれたボールをめぐり、長いパス回しは続いたものの、誰一人決定的なシュートを打たない。そのうち、「世界」という名のスタジアムを埋めた観客から大ブーイングを浴びせられてしまった。

 IOC、組織委員会、日本政府は、かつて試合に登場していなかった、しかし手ごわいウイルス相手に、極めて厳しいポゼッション(ボール保持)を強いられた。シュートを打つとは、過去に例のない延期の責任者を選ぶ決定的なプレーになるからだ。

 1896年に始まり124年を迎えた近代五輪は過去、1916年ベルリン、40年東京、44年ロンドンと3度中止されたが、どれも戦争に伴い開催都市からの返上が前提の話である。五輪憲章には、IOCが中止を決定できると記されてはいるが、選手が選手村でテロに襲われ選手ら11人が亡くなる危機的状況にさらされた72年ミュンヘンでさえ、当時のブランデージIOC会長は大会を続行。92年バルセロナ五輪前年の湾岸戦争、2010年バンクーバー冬季五輪前の新型インフルエンザ世界的流行、16年リオデジャネイロ五輪前、ブラジルでのジカ熱感染拡大と危機には直面したものの、IOCが主導して大会中止のカードを切らずに済んだ。

 まして延期など、彼らが誇る憲章にもない。自分たちから「延期します」といった瞬間、どうなるか、責任の所在、運営手段、追加費用の負担割合一切が定かではない。だから「予定通り行う」、「中止は議題にない」としながら、感染が拡大の一途をたどると「違うシナリオも検討している」と日本にパスを回した。最後は聖火リレーのスタート直前、世界中からの大ブーイングに、日本にシュートを促した格好だ。事前に事務レベルでの折衝を行った上で、安倍首相がバッハ会長との電話会談で(3月24日夜)「1年程度の延期」と出した提案は、IOCにとって最高のアシスト、ラストパスとなった。

新たな出発、とはいかない、4年の体内時計で生きるアスリートたちの苦悩

 延期決定後、コロナウイルスの一日も早い収束を願い、「前向きに頑張る」「素晴らし五輪を開催するために一緒に戦いましょう」と、定型文のような選手コメントは各競技団体、所属企業から出されている。それぞれ競技性も立場も異なるが、何度か五輪に挑戦し4年に一度という独自の「体内時計」で生きる姿、その重みを改めて教えられるように感じている。JOC(日本オリンピック委員会)山下泰裕会長(62)は、バッハ・安倍会談に同席していなかった。IOCと五輪開催の契約を結んだ当事者として、連携を積極的に行い、初の延期に向き合う選手たちを選考面でも、競技面でも最大限支援して欲しい。

 延期決定直後、女子では柔道の谷亮子に並ぶ、夏季五輪5大会連続出場を狙うウエイトリフティングの三宅宏実(いちご株式会社)の顔を思い浮かべた。

 4年前のリオ五輪は、歯磨きもできないほどの腰痛に苦しみながら、奇跡ともいえる銅メダルを獲得。ロンドンの銀に続く2大会連続メダルの獲得で、日本女子アスリートのレジェンドとなったが、三宅はそれでも引退をしなかった。なぜあの痛みのなかでメダルを取れたのか、理論を究めたいと休養後に再起し、

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