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「コロナ転向派」と五輪「ムラ」

五輪延期決定後に見えてきた2つの潮流

小笠原博毅 神戸大学大学院国際文化学研究科教授

 季節柄か、新型コロナウイルスによる肺炎の流行と東京オリンピック/パラリンピック(以下、五輪)の延期決定を受けて、まるで雨後の筍のように今度は五輪の中止を見越したり、提案したりする言論を多く目にするようになった。

 五輪の中止を堂々と言葉にしてももう安全だという判断からなのだろうか。しかし、コロナウイルスに、すべてを上書きさせてはいけない。延期の決まった五輪に直接間接にかかわる出来事や、それらをめぐってこれまで発せられてきた言論を、なかったことにさせてはいけないのだ。

 4年前『反東京オリンピック宣言』(航思社、2016年)を編んだとき、筆者は五輪を推進する力の一つを「どうせやるなら派」と名付けた。ナショナリズムの高揚やグローバル資本主義の利益創出や、IOC幹部やらの五輪貴族の「慰み」ではなく、代替的な五輪の活用方法を見つけ、作り出し、「決まってしまったんだから」上手くやろうと考えて知恵を絞り出そうという人たちのことだ。

 「どうせやるなら派」は、五輪を返上もしくは中止するという代替案をはじめから勘定に入れず、五輪を「食うことはできても五輪に食われることはない」(260ページ)と確信していた。

「コロナ転向派」の出現

拡大IOCのコーツ調整委員長らとのテレビ会議を終え、記者会見に臨む2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(左)。マスクをしている。=2020年4月16日、東京都中央区

 コロナはこの「どうせやるなら派」を変性させた。五輪に乗ってやれ。そう嘯いていた人たちの中から、五輪はやるべきではない、という見解が生まれ始めているのだ。

 2013年の招致決定時における安倍晋三首相の「アンダー・コントロール」という嘘発言以来、新国立競技場やエンブレム策定をめぐる不透明な混乱、竹田恒和JOC(日本オリンピック委員会)会長の賄賂疑惑とその後のIOC(国際オリンピック委員会)委員辞任、競技施設周辺の過度なジェントリフィケーション(都市再開発)、突貫工事による作業員の事故やストレス自殺、膨らみかさんだ税金の投入と、五輪教育やボランティアも含めた市民生活の統制など、この五輪はケチのつき通しである。

 こうした一連のケチにもかかわらず、「どうせやるなら派」は一貫して「どうせやるなら」という姿勢を崩してこなかった。このコロナ災禍に至るまで。

 この間、「どうせやるなら派」の表看板を背負っていた、組織運営に関わるビッグ・ネームの「文化人」たちのメディア露出が極端に減った。開会式で提案されていたアイヌの舞踊を省くという決定が発表された際に少しだけ出てきた、野村萬斎。公式記録映画製作総指揮の河瀬直美は、コロナのことも映像記録に残すと発言し、あくまでも五輪は実施されるという前提で、少しだけ出てきた。絵に書いたような「どうせやるなら派」だった「国民全員が組織委員会」会長椎名林檎は、コロナ集団感染の恐れがあるライヴを決行して、非難を浴びた。

 さらには、「東京2020オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」なる五輪の再設計を提唱していた起業家気質の若者は、五輪開催が危うくなる頃合いを見計らったかのように、平成から令和へと時代が代わった(なんで元号が代わっただけで時代が代わったと言えるのかわからないが)のにオリンピックの実体は変わらないから、これは「失敗」のプロジェクトだ、「茶番」だ、だからこの「茶番」を繰り返す構造を破壊しよう、と次なる代替案を持ち出し始めている(宇野常寛『遅いインターネット』NewsPicks Book、2020年)。五輪を楽しもうと煽っておいて、今は「少し違う」からもうやめようというのである。

 他方でそれほど若くはないが、権威ある「どうせやるなら派」も負けてはいない。五輪をきっかけに「新たな東京を作っていこう」と、産官学共同で五輪を都市の文化資源を再活性化させる契機にしようと訴えていた大学教授は、64年の成功物語に引きずられて、二匹目の泥鰌を夢見ていた「私たちは根本でボタンの掛け違えをした」と言う(吉見俊哉「『輝かしい時代』五輪はもう招かない」4月2日付朝日新聞)。「歴史は願望の先にはない」とここに来て言い出すならば、五輪によって東京を再活性化できるなどとはそもそも期待しなければよかったのである。さすがにそこまでの大予言は叶わなかったのであろうか。

 彼らは、いわば「コロナ転向派」である。それは、五輪の旗色が悪くなってから五輪の価値を批判し、まるで今回の五輪には意味がないとでも言い捨てるような態度である。

 「コロナ転向派」は、すべて後出しジャンケンなのだ。五輪の価値や、五輪に付随する付加価値を一定度評価していた過去の態度が、まるで懺悔の値打ちもないかのようなのだ。ウイルスはこのような「コロナ転向派」がほくほくするような理由を与えてしまった。時勢という波を上手く読み、変幻自在に軽々とポジションを変えるというよりも、そもそも彼らは初めから波に乗っていない丘サーファーなのだ。

 彼らにとって、五輪とはかくも「他人の物語」(宇野、前掲書)だからである。アスリートでもなく、建築家でもなく、ボランティアでもなく、役員でもなく、家を追い立てられるわけでもなく、建設現場で働くわけでもなく、ただ五輪を消費すればいいだけの、それもどれだけ上手いこと消費できるかを内輪で競っていればいいだけの、しかし納税者であり有権者である現実は捨象してもいい、そういう丘サーファーだから、五輪は結局他の誰かのお話で済ませられるのだ。

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筆者

小笠原博毅

小笠原博毅(おがさわら・ひろき) 神戸大学大学院国際文化学研究科教授

1968年東京生まれ。専門はカルチュラル・スタディーズ。著書に『真実を語れ、そのまったき複雑性においてースチュアート・ホールの思考』、『セルティック・ファンダムーグラスゴーにおけるサッカー文化と人種』など。

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