薄雲鈴代(うすぐも・すずよ) ライター
京都府生まれ。立命館大学在学中から「文珍のアクセス塾」(毎日放送)などに出演、映画雑誌「浪漫工房」のライターとして三船敏郎、勝新太郎、津川雅彦らに取材し執筆。京都在住で日本文化、京の歳時記についての記事多数。京都外国語専門学校で「京都学」を教える。著書に『歩いて検定京都学』『姫君たちの京都案内-『源氏物語』と恋の舞台』『ゆかりの地をたずねて 新撰組 旅のハンドブック』。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
観光客の姿が消えた京都に夏越祓の茅の輪が据えられた
京都は祭の多い町である。
桜の季節に、疫病を鎮める春のさきがけの祭、今宮神社のやすらい祭にはじまり、勅祭である葵祭、つづいて悪疫退散の上御霊神社の御霊祭と、平安の無事を願う祭が引っ切りなしに行われる。しかし今年は折悪しく次々と巡行中止の知らせがつづいた。
京に暮らす人々は「よもや祇園祭も……」と不安を口にしていたが、その祇園祭も山鉾巡行をはじめ、関連の祭事の中止が告げられた。
毎年、祇園祭の取材のたびに思うが、年々熱気をおびている祭である。山鉾巡行では12万人からの人が繰り出す。宵山の日にはメインストリートの四条通、烏丸通が歩行者天国になるのだが、それでもまともに歩けないほどの混雑になる。今もっとも気をつけなければならない密接、密着の最たる状態になる。
7月16日の宵山、翌日の山鉾巡行だけではない。祇園祭は、7月の一カ月にわたって行われる祭である。以前は、山鉾巡行にしか観光客の姿がなかったが、近年ではどんな小さな神事にも、祇園祭通(つう)の人が現われ、大盛況となる。
ゆえに、従来通りの祭行事を遂行することはむずかしいと危ぶまれた。
祇園祭の起源である祇園御霊会は、貞観11年(869)といわれる。神泉苑に66本の鉾を立て、祇園社の神輿が行幸し、疫病平癒、天変地異の災厄を祓う祈願をしたことに由来する。当初は疫病が流行った時だけ行われていたが、天禄元年(970)から毎年営まれるようになり、長徳4年(998)から山が出るようになった。
室町時代、長きにわたる応仁の乱(1467~1477)の戦禍に遭い、祇園祭は中断するが、明応9年(1500)に町衆の心意気によって復活を遂げ、昨年(2019)、1150年の節目を迎えた祭である。歴史を遡れば、恐れを知らぬ武将や将軍家ですら祇園祭を重んじ、疫病退散の祈願を優先事項とした。
論座ではこんな記事も人気です。もう読みましたか?