老いた母を7年のあいだ介護して見送った息子が考えた死に関すること
2020年04月26日
この春に上梓した本は、多くの人から、上野さんもそうだったのぉ、同感だぁ、という感想が寄せられている(『万葉学者、墓をしまい母を送る』講談社、2020年)。
兄が死んだ時、すでに母は入退院を繰り返す体となっていた。兄のお葬式が終わって、ほっとして、母の見舞いに行くと、いきなり病院の事務長から、
「一週間以内に、他の施設に移って下さい。三か月を過ぎての入院はできません」
と言われた。そこで、私はさまざまな施設に電話もし、訪問もするのだが、100人順番待ちをしておられますからとか、3年後には、などと断られてしまったのだ。
いったい、どうすりゃ、いいのか――。
ここから、悪戦苦闘の7年間を描いたのが、この本だ。もちろん、小さな小さな歴史だ。けれど、私はこれも、生と死をめぐる心性、すなわち心のあり方の歴史である、と思う。だから、これは介護のハウ・ツー本ではない。
この本は、1972年の夏から始まる。その年の8月に祖父が息を引き取ったのだ。当時は、医者がその日が近いことを判断すると、患者を家に帰していたのである。
理由は二つあって、病院で死なれると病院の評判が下がること。もう一つは、そのころは、家族で最期を看取(みと)ろうとしていたからである。私は、ここではじめて、人が死んでゆくという姿を1カ月半に渡って見ることになる。
なかでも、鮮明に記憶が残っていることが二つある。
一つは、大人たちの慌ただしい動きだ。
まず、賄い。当時は、仮通夜、本通夜、告別式とあって、そのたびに参列者は、家で食事をした。しかも、その賄いはすべて、女衆といわれる親戚と近所の女性陣が担ったのである。女たちは、3日間で数百食の食事を作りつづけ、かつ洗い物をしていたのであった。
男たちはといえば、葬式の段取りを決めるのであるが、これがグダグダとして、なかなか決まらない。喪主の意向に、親戚たちの牽制(けんせい)、お寺の都合の利害を調整するのが難しいのだ。とにかく、飲みながらグダグダとやるのである。
では、そのグダグダ会議の結果はどうかというと、結論は出ないまま、時間がないから喪主さんの意向を尊重しようということで終わるのである。まったく、くだらない時間だと思うが、今、考えてみると、私はここに日本型民主主義の原点がある、と思う。
とにかく、長い会議をして、皆に意見を言わせて、この問題がいかに難しい問題かを認識させる。ところが、会議ではけっして結論は出さないのである。では、どうするか。一応、時々の長や顔役の顔を立てて、結論を一任にする。長や顔役は、会議の大勢を見つつ、根回しをして、粛々と決める。これで一丁上がりだ。誰も責任を取らずに、なるべく反対の少ない案が、なんとなく決まって、粛々とことが進むのである。多数決などという野蛮なことはしないのだ。
もう一つの鮮烈なのは、「湯灌(ゆかん)」の記憶だ。
郷里の朝倉市では、当時は家々で「湯灌」ということをしていた。つまり、死者を納棺する前に、お風呂に入れるのだ。しかも、それは、妻や娘の仕事であった。男たちは、知っていて知らぬふりのふて寝を決め込むのであった。
13歳というのは微妙な年齢で、まだ一人前の男とは認められないのである。だから、男衆の数には入れてもらえないのである。そこで、祖母と母とを手伝って、私は遺体を背負って風呂まで運ぶことになった。
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