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火事場の9月入学論は危険だ/先進国で最も遅く義務教育を始める「コロナ入学世代」への懸念

コロナ危機の今、進めるのか? 1次効果も薄く2次被害の大きい政策オプション

末冨 芳 日本大学教授

1.「火事場の9月入学論」はなぜ危険か?

 最初にことわっておきますが、私自身は9月入学には特段、賛成でも反対でもありません。ただ多くの良識ある読者のみなさんと同様に、9月入学の問題は学校だけにおさまらず、日本社会への大きな影響を考えないといけないはずである、という心配をしているだけです。

 私自身は教育学、とくに教育費問題・教育財政を専門とし、子どもの貧困問題や格差問題の改善にアプローチしてきた研究者です。

 9月入学論の根底には、新型コロナウイルスにより休校長期化を憂慮する政治家や若者・保護者が、学びを保障したい/してほしい、教育格差が広がるのは嫌だ、悲しいという思いがあることを私も共有いたします。

 私も保護者のひとりとして、この状況に悲しみと、不安とそして苛立ちを感じるときもあります。

 しかしながら、この論稿で申し上げなければならないのは、この大変な状況の中で性急な議論を行おうとする「火事場の9月入学論」は、危険だということです。

小池百合子・東京都知事=2020年4月24日、東京都庁
会見する吉村洋文・大阪府知事=2020年5月2日、大阪府庁

 たとえ来年度導入であったとしても、東京都知事と大阪府知事のおっしゃるグローバル化への効果、あるいは学びの格差や授業時数格差の縮減といった1次効果すら、ほとんど期待できない、というのが、批判的論者の共通見解です。

 それどころか、性急な9月入学は学校現場だけでなく国民経済や社会全体に与える2次被害が大きい政策オプションであり、相当に広汎かつ丁寧な検討が求められるということなのです。

 未曽有の災害である新型コロナウイルス感染拡大の混乱状況の中で、「火事場の9月入学論」をおしすすめてしまうことは、平時であれば丁寧な議論を経たのちに、慎重な移行措置が必要であるイシューに対し、論点の見落としや、乱暴かつ不十分な移行措置しか講じられないリスクを内包します。

 あの時9月入学にしてよかったというコロナレガシーの確立より、9月入学などしない方がよかったと多くの人々が後悔し疲弊しつづける2次被害が社会に拡大し、コロナ後遺症を深刻化させかねません。

2.政党も知事会も分裂

 9月入学を言い出した全国の知事さんたちの意見もかなり多様です。

 小池東京都知事、吉村大阪府知事はグローバル化、国際化への対応の文脈から声明を出されているようですが(日経新聞4月30日)、宮城県知事は公立学校の再開遅れへの懸念からの提言(NHKニュース4月29日)、京都府知事、岩手県知事、栃木県知事、富山県知事、奈良県知事、石川県知事、愛媛県知事らは今年度の9月入学には「拙速」「冷静な議論を」など慎重姿勢です(日経新聞4月29日、河北新報4月30日)。

 また鳥取県は5月7日からの県立学校再開を決めており、事実上9月入学は不要な状況になっているなど、47都道府県知事も分裂状況にあるといってもよいでしょう。

 政党の意見も多様です。自民党でも「少なくとも今年9月から始めるのは拙速だ」「現実味をもった対応」「地に足のついた議論が必要」などの慎重論が確認できます(産経新聞5月1日)。

 近畿大学理事長でもある世耕弘成自民党参議院幹事長は「国民が大変な中で大きな社会的な変革を行う余力があるのか」「社会的に耐えられるのか」など、かなりの慎重姿勢です(時事通信4月30日)。おそらく私と同様に、学校を越え、社会全体に相当に大きな影響があることを理解なさっていると拝察申し上げます。

 公明党も「ハードルも高い」と指摘なさっていますし(NHKニュース4月30日)、野党も国民民主党と日本維新の会のみが9月入学論を支持していますが、立憲民主党、共産党、れいわ新選組は9月入学の議論よりも新型コロナ対応に全力を尽くすべき、という姿勢と報道されています(産経新聞5月1日)。

 常日頃、チルドレン・ファーストを強調し、子ども・若者の貧困問題に熱心に取り組んでいただいている国民民主党の「『9月入学・9月新学期』案に関する提言」を私も拝読しました。ですが「学事歴の後ろ倒し」により公平な教育機会の保障ができる、という議論には首をひねらざるを得ません。

 後述しますが、安易な「学事歴の後ろ倒し」こそ、わが国の子ども・若者の学力保障だけでなく、一生消えない「コロナ入学世代」のダメージを負わせかねない危険な政策だからです。

 政党や知事会すらこのように意見がまとまらない政策イシューを、コロナ災害に国と地方の総力をあげて立ち向かわなくてはらない、いまこのときに議論するメリットは何なのでしょうか?

 突発的な9月入学論への対応に国や地方の公務員が時間を割くことになれば、本来であればいまこの瞬間にも推し進めなければならない子ども・若者への学びやケアの保障、学校現場の再開にむけて割かれるべき教育行政のリソースが奪われます。

 繰り返しますが、私自身は9月入学には特段、賛成でも反対でもありません。

 ただし、「火事場の9月入学論」はとても危険だ、という立場にたっています。

3.予想以上に深刻な学事歴変更のダメージ

 すでに9月入学のメリット・デメリットを丁寧に検討くださっている論稿も多いです。その主なものをここに示します(私も多忙であること、執筆しているいまこの瞬間も様々な発信が行われていることから、十分なレビューができていないことお詫び申し上げます)。

 まず、①佐久間亜紀・慶応義塾大学教授による政党向け「9月入学制度に関する論点整理および喫緊の対応を求める要望書」は、9月に入学・始業を求める声があがる理由とともにメリットとデメリットを整理し、学校再開後の感染症対策を含め国に求められるビジョンとミッションを示しており、推進派も批判派もリンクから確認されることをおすすめします。

 また批判派の意見としては、以下をあげておきます。

妹尾昌俊氏「【9月入学・新学期推進の論拠を検証】グローバル対応できるって本当? みんな一緒一斉が本当にいいの?」(Yahoo!個人2020年5月1日記事)

鈴木款氏「【緊急検証】『9月入学』はコロナ禍にある子どもを救うのか 子どもと学校と日本社会への影響をシミュレーションする―教育現場の大混乱に拍車をかける事を懸念する」(FNN Prime Online,2020年4月30日記事)

私、末冨芳「9月入学でますます加速する教育現場のブラック化!子ども・若者にいま政治家が果たすべき責任とは」(Yahoo!個人2020年4月30日記事)

 とくに②の議論からは、9月入学の1次効果と期待されるはずのグローバル化にも効果が薄いばかりか、「学習の遅れをカバーでき、学力格差の是正につながる」という「9月入学論者が重視することと逆の副作用を生んでしまうかもしれない」という強い懸念が示されています。

 妹尾氏の主張に私も賛同します。

 賛成論については、⑤登誠一郎・元内閣外政審議室長の「『9月入学』は実現可能だ!~問題点と対処法」(論座5月1日記事)は大変興味深いものです。個人的には入学者急増対策については、注目されるべきアイディアだと思います。

 コロナ災害の「火事場で9月入学論」を推し進めてしまうことによって、本校では次に述べる3つの視点から、9月入学の2次被害がコロナ後遺症をさらに深刻化させてしまうことを深く心配しています。

 すでに①~⑤の論考に述べられた事項は、簡略化して記載します。

(1) 2021年入学の子どもたちの一生消えない不利:先進国でもっとも義務教育開始が遅く学年集団の大きい「コロナ入学世代」の懸念

 「火事場の9月入学論」の致命的な欠点は、「就学を半年後ろにずらす」というアイディアそのものにあります。

 ③の鈴木氏の記事でも紹介されていましたが、ある文科相経験者は「これまでの秋入学の議論は7か月早めるという議論だった。今回は5か月遅くするという議論だ」という点に違和感を示されています。

 6歳入学が、先進国や中国韓国を含む東アジア諸国のスタンダードです。

 イギリスは5歳から義務教育が開始します。文部科学省も歴史的には5歳入学を検討してきました。

 しかしながら、なし崩し的に「就学を半年後ろにずらす」と、たとえば2014年4月生まれの子どもの場合、2021年9月入学になると本来同年4月入学だった場合と比較して半年遅れ(7歳半)で義務教育が開始してしまうことになります。

 これは先進国でもっとも遅い入学年齢になります。新入生人口も4月~8月生まれの5か月分増えます。

 この解決策が登氏(⑤)の述べられている1年ごとに生まれ月を1か月ずつずらしていく、という政策オプションですが、コロナ災害によって地域格差の生じる授業時数の格差改善への対応策にはなりえません。

 また授業時数の地域格差にこだわって無理やり2021年9月の小学校入学にした場合、2014年4月生まれの子どもたちは、7歳半での就学となり「先進国でもっとも遅く義務教育を開始させられた子ども」たちというクラスターが誕生することになります。

 中学校、高校でも同じ問題が発生します。賛成派の登氏すら懸念しておられる教室不足、教員不足も、もちろん発生します。

 義務教育や高校の学習指導要領や教科書は、発達段階を考慮して開発されていますが、とくに小学校における半年の発達差は相当に大きく、2021年9月の新小学校1年生は2014年4月から2015年8月末までという17か月もの月齢差のある子どもたちの集団となり、指導が非常に困難な学年集団となります。

 コロナ災害を経験したうえに、ベテラン教員でも経験したことのない月齢差・発達差による深刻な小1プロブレムの懸念、またそれが学年進行によって解消しきれるかどうかは未知数という「コロナ入学世代」が誕生し、おそらく「ゆとり世代」と同様に、長期間いわれなきレッテルに苦しめられることが、憂慮されます。

 もちろん学力保障において厳しい状況になるだけでなく、いじめや不登校などの問題行動も増加し、改善できないことすら想定しなければなりません。

 それほど「火事場の9月入学論」は危険なのです。

PECASSO/Shutterstock.com

 王道の9月入学論であれば、5歳半からの就学とともに、就学前教育と小学校教育の接続の見直しや保幼小連携の充実などが、検討される必要があります。

 同様に中学校・高校・大学の接続の丁寧な見直しも重要であり、吉村大阪府知事のいうような「日本の未来を考えた時に今やるべきで、今できなかったらもう2度とできない」と簡単に断じられるようなイシューではないと考えます。

(2) 移行年度の人手不足による経済への負の影響

 妹尾氏もすでに、「深刻なのは、人手不足への影響である。9月新学期を主張する方々は、5~6ヶ月間、新規の労働力が約100万人分減ることをちゃんと考えておられるのだろうか?」(Yahoo!4月28日配信記事『9月入学・新学期は進めるべきではない―子どもたちと社会への影響を重く見るべき4つの理由』)と指摘されています。

 学事歴を半年遅らせることで生じるあらゆる産業部門での人手不足の加速、移行年度の混乱回避策など、教育を超えて幅広い視点から考えないと、下手をすれば生産活動・サービス提供や消費活動に大きな影響をおよぼし国民経済にマイナスの影響を与えてしまうのではないでしょうか?

 9月入学の2次被害として、経済的社会的なダメージを想定せずに強行することは、コロナ後の復興策として適切なのでしょうか?

 経済学研究者のみなさんからの指摘や発信も期待します。

(3) 社会的弱者に生じる混乱

 9月入学移行に際しては、特別支援学校教諭やスクールソーシャルワーカーからの不安も、私への個人としての意見として届いています。

 スクールソーシャルワーカーの方によれば、発達障害や精神障害を持つ児童生徒だけではなく、その子どもを育てている保護者や、保護者自身が障害を持つ場合も、9月入学による精神や情緒、行動面での混乱が、大変なことになるのではないかという事態が想定されるとのことです。

 また障害を持つ児童生徒の家庭は、支援制度につながるための事務手続きも多く、ただでさえ追い詰められている保護者を、さらなる困難に追い込むことを心配しておられます。

 こうした社会的弱者に対して、「安心を与えながらゆっくり丁寧なペースでないと大きな社会制度の変化には耐えられないのでは」という不安を、推進派とされる自民党や全国の知事さんたちは受け止めてくださるでしょうか?

 9月入学による社会リズムの変化、たとえば入学式が4月から9月に変わると、学校行事の時期もすべて変化していき、それによる精神や情緒、行動面での不安定化が数年の間続くのではないかという懸念もあるとのことでした。

 教え子の特別支援学校教諭も、来年度の9月入学でも特別支援学校の卒業生を受け入れる場合の企業側の体制が整うのかどうか、とても不安に感じているとのことでした。

 社会的弱者に生じるこうした混乱を十分に予測しながら、9月入学に移行するためには、「安心を与えながらゆっくり丁寧なペース」での十分な準備や支援体制が求められることはいうまでもありません。

 それはコロナ災害がまさに進んでいるいま、いそいで検討される事項なのでしょうか?

 このように、「火事場の9月入学」を推進すると、2次被害が様々に拡大することのコストやリスクが、グローバル化や学びの格差改善の1次効果(それすらも疑わしいですが)のベネフィットを上回るのではないでしょうか?

 学校行事や長期休み等の変動による教職員、スポーツ文化団体や観光業・レジャー産業への影響などおそらく、ここでの指摘以外にも想定しなければならない要素は多いはずです。

4. 問題を冷静に切り分けて考える

(1)緊急で対応しなければならないのは大学入試と就職活動

 そこまでの2次被害を、子どもや社会に発生させながら、いま、子ども・若者全体での9月入学を進めるメリットはない、というのが私自身の考えです。

 むしろ、9月入学・始業を求める当事者の意見に寄り添うならば、問題を冷静に切り分けて考える必要があります。

 政党に対する①佐久間氏の提言では、9月入学・始業を求める声があがる理由の第一は「児童・生徒の進路への影響」であると、指摘されています。

 「火事場の9月入学」を求める声、とくに入試や就職を懸念する若者たちの声は大切にされるべきです。

 大学に限っていえば、すでに9月卒業などへの柔軟な措置は可能であり、入試時期をずらし、9月に限らず感染収束に応じた入学時期を検討することも可能でしょう。

 ただしそれは令和3(2021)年度入学のための緊急措置として行われなければ、前述したような子ども・若者や社会全体への2次被害を発生させ、コロナ後遺症をますます長期化させるはずです。

 また企業採用についてはすでに通年化している企業も多いですが、採用時期をコロナ収束にあわせてずらしていくためのルール作りが重要になります。

 9月入学に割くリソースがあるのでしたら、それよりもコロナ氷河期世代を誕生させないための政府のリーダーシップの発揮を大いに期待したいところです。

(2)9月入学=グローバル化&若者が世界で活躍できる?

 東京都知事と大阪府知事はグローバル化を9月入学のメリットとしてあげておられますが、そもそも日本の家計や若者の貧困化によって、海外留学したくてもできない、そもそも海外に興味を持つ思考の余裕すらない若者が増えているのが実態です。

 子育て家計を支える現金給付の拡充を前提とし、学生支援、若者支援の充実もなければ、おそらく9月入学だけでは大学の国際化は進みません。

 海外からの留学生も、支援制度やカリキュラムの魅力など、9月入学以外の要素も充実しなければ増加しないでしょう。

 また9月入学によって、日本の最優秀層は、大学の自由度が高く研究水準も高い海外の大学・企業・研究機関等に流出し、日本に戻ってこない、頭脳流出が本格化してしまう可能性も想定しないと、政治家のみなさんも「火事場の9月入学」を後悔することになるのではないでしょうか。

(3)学びの格差を埋めるために:設置形態にかかわらず児童生徒の学びの支援と学校現場の支援を

 今年度だろうが、来年度だろうが、9月入学ではいま子どもたちに起きている授業時数の地域格差や学校格差の解決策にはなりません。

 すでにオンラインで授業再開できている私立学校や、授業再開する公立学校の教育活動を止められる法的根拠はなにもありません。

 むしろ②妹尾氏も指摘されているように、学びを強制的に半年停止することのダメージも大きいはずです。

 そもそもコロナ以前からの学力格差については、④拙稿にも書きましたが、子ども・若者への投資拡充と教職員の重点的拡充以外に解決策はありません。

 政府投資を拡大せずに、教育の質の向上は実現不可能ですし、いまコロナ災害で生じている学びの格差の解決もありません。

 コロナ災害下で求められるのは、感染リスクを最小化するオンライン学習環境の整備です。

 たとえ、感染がいったんおさまっても、児童生徒自身や家族に基礎疾患保有者等のハイリスク層がいた場合には、無理に登校をしなくてよく、安全な学習環境を提供しつづけるためにも、もっとも急がれる政策です。感染の第二波、第三波対策としても有効です。

 特にオンライン学習対応が難しい児童生徒や学校への重点的な学習環境の保障は急務です。

m-tsukasa//Shutterstock.com

 公立学校の対応の遅れが目立ちますが、早期にオンライン授業対応を開始した国公立高校・私立学校でも、システム整備や学校での教材準備や家庭への送付含め相当な負担を強いられています。

 児童生徒への端末や通信環境整備とともに、国公私立のあらゆる設置形態の教育機関に対し、児童生徒への授業配信、あるいはホームルームや相談機能を提供するためのオンライン学習の設備投資やシステム改修費などの機関補助も拡充すべきです。

 またこれを機会に、設置形態を越えオンライン学習で蓄積のある学校(通信制高校含め)と、そうでない学校との情報交換のプラットフォームを国や都道府県が準備することも、大切な支援策ではないでしょうか。

 大学教員はすでに自主的にいくつかのプラットフォームを立ち上げ、お互いの経験や情報に学びながら、前向きに授業をしたり、準備をすすめたりしています。

 日本の教職員集団の教育にかける情熱、子ども・若者の心や学びを支えたいという思いは、コロナ災害であっても、世界トップクラスであることを私は信じています。

 とはいえ、今回の9月入学論は、あらためて日本の学校システムの課題を浮き彫りにしたという意味での功績はあると考えます。

 しかし、最後にもういちど強調しておきます。「火事場の9月入学論」を拙速に進めることは、1次効果も期待できないどころか、2次被害も大きくすることになるはずである、ということを。

 拙速な改革という意味では、大学共通テストにおける英語民間試験と記述式テストの延期と見直しの経験を我々はしたばかりのはずです。

 日本の政治家が、それから1年とたたない間に同じ轍をふまない賢明さを持っていることを信じるばかりです。