人生100年時代の旅の愉しみ【5】世界遺産のリゾートは「検疫」発祥の地
2020年05月05日
旅は時代を映して様々な事象と出合う。人生100年時代の今、交通網の発達と旅行人口の増大は、感染症を全地球的に広める危険性もはらみ、日々、検疫の役割の重大性が伝わる。
検疫の始まりは14世紀。黒死病と恐れられたペストが大流行したころだ。世界に先駆けて検疫制度を導入したのは、ヴェネチアと共に地中海貿易の覇者といわれた「ドゥブロヴニク」である。この地の検疫の歴史をたどると、国や町づくりの要諦が見えてくる。
ドゥブロヴニクは、クロアチア共和国の南端部にある古都だ。南側にアドリア海が広がり、北側にスルジ山が控える。山から望む海は、どこまでも紺碧に広がり、家々を覆うオレンジ色の屋根瓦は、あくまでも明るい。ヨーロッパの、いや世界のリゾートとして人気が高く、“アドリア海の真珠”と呼ばれ、親しまれている。
ドゥブロヴニクの歴史は古く、かつてはラグーサと呼ばれていた。ドゥブロヴニク市観光協会の資料によれば、2世紀にローマ帝国の支配下にあったという。
5~6世紀にかけて町作りが始まり、ヴェネチア共和国、ハンガリー王国などの支配下にありながらも地中海貿易で大いに国力は増し、14世紀にラグーサ共和国として独立。その中心となったのが、城壁に囲まれた首都ドゥブロヴニク。現在のドゥブロヴニク市の旧市街地である。今も中世の面影を伝え、観光の中心でもあるが、紹介は後に譲り、まずは、検疫制度と隔離の施設を見ていこう。
旧市街の出入りには、城壁にある3つの門のいずれかを利用する。旧検疫所は、そのひとつ、旧港を望むプロチェ門近くにある。門を出てすぐに、高い石造りの壁にオレンジ色の屋根瓦を載せた大きな建物が海に面して立っている。
1590年から建設が始まり、1642年に完成した。なお、ラザレットとは、クロアチア百科事典によれば、ヴェネチア近郊の島、サンタマリアディ・ナザレスにできた隔離施設に由来し、感染者の守護聖人ラザロの名に派生してラザレットと呼ばれたことからきている、とある。
地中海貿易が盛んな14世紀から17世紀にかけて、ドゥブロヴニクの港には、ヨーロッパやアジアと取り引きする多くの船が出入りした。このため、共和国は伝染病や不審船が入ることを極度に警戒し、夜間には港の端と端を鎖でつないで不審船の入港を止める措置をとり、伝染病に対しては検疫の制度を取り入れた。
ドゥブロヴニク再建機構がまとめた「ドゥブロヴニクにある検疫所―ヨーロッパの検疫の始まり―」(2018年)の資料によれば、ドゥブロヴニク評議会は1377年にペストの侵入を抑制するための法律を制定。ドゥブロヴニクに来る国内外の船舶を、当初はラザレットではなく、南東に約20キロ離れた港町ツヴァタトゥの沖に浮かぶムルカン島などに滞在させることにした。
今から約640年前、日本で言えば室町時代初期のころである。同資料では、多くの科学者はこの制度は他の地中海の都市と比較して優れ、独創的であり、世界で最初の検疫規制と見なしている、と記述している。
検疫制度の歴史研究の第一人者で、ドゥブロヴニク大学のヴェスナ・ミオヴィッチ教授(59)は「14世紀から15世紀にかけては、伝染病のペストが大流行し、ドゥブロヴニクでは国民の安全と経済を保つために対策と制度を作る必要がありました。この時期に、健康や衛生に向けての種々のサービスが他の国に先駆けて始まったのです」という。
経済面については、クロアチア科学芸術アカデミーの歴史研究者が、こう指摘する。「外国からやってきた船に対して、イタリアのヴェネチアなどは、(ペストの流行初期は)排除するなどして入国を拒否したが、ドゥブロヴニクは、停船させたものの入国させないことはなかった。これが大きな特徴です」。入国させたことで、一定の貿易が保たれ、経済の停滞を防ぐことができたのである。
クロアチア・ハートフルセンター代表で、元クロアチア政府観光局日本事務所のエドワード片山局長(44)は「島へは水と食料が運ばれ、30日を経過して発病が無ければ上陸が許可されたのです」という。
「その後、検疫は他の島に移して継続されました。その間にも、ドゥブロヴニクは市民の感染症の予防と健康維持を推進するため、1416年には旧市街地内に専門の清掃人による道路清掃を制度化。その約20年後には、上下水道も引いています。ヨーロッパ諸都市ではまだ行われていなかった、衛生面を重視した町づくりを始めました」と片山氏。
入港する船舶の増大に合わせ、15世紀中頃には検疫所を島から本土に移し、1642年に、現在あるプロチェ門近くの新しい検疫・隔離施設を完成させた。
先のミオヴィッチ教授によれば、「8棟の建物と5つの中庭からなり、室内にはリビング、キッチン、トイレがあり、荷物の菌を落とすためのスモークのスペースや家畜を除菌するプールも備え、2名の医師に薬剤師がいました」とのことだ。厳重な観察と治療が行われていたことがうかがえる。
滞在日数も、40日間に延長された。「今日、英語で検疫や隔離を『quarantine』と言いますが、その語源はこの『40』のイタリア語『quaranta』からきているのです」と片山氏。
これに対して、日本では江戸時代に幕府の洋書調所が、「検(調べる、閉じ込める)」、「疫(流行病)」の2つの言葉を合体させて、「検疫」と訳した。
直訳すれば「40」となる単語を、その意味する言葉にずばりと訳したのは、洋書調所の杉田玄端らの医学への進取的な思想と見識、そして卓越した語学力によるものだろう。これにひきかえ、昨今の役所や政治家が多用するヨコモジのわかりづらさはどうだろう。自らの言語理解の貧弱さを露呈しているようにも見受けられる。
余談はさておき、こうした検疫施設の充実によって、ドゥブロヴニクでは、ペストの大流行を19世紀初期までに抑えることに成功した。
旧検疫所の建物は現在整備され、検疫ではなく市民の各種イベントやコンサートなど文化活動の場として広く利用されている。
プロチェ門まで戻り、旧市内を巡ってみよう。「町の様子を知るには城壁の上に続く遊歩道を歩くのが一番ですよ」という観光案内所のアドバイスに従って歩いてみる。
急な石段を登ってすぐ、振り向くと眼下に旧港が見える。港をはさんで、聖イヴァン要塞が港を守るようにそびえ立ち、左手奥には、前述の旧検疫所が見える。
見渡たすと、かつて首都が置かれた地区が、やや円形をした周囲およそ2キロ弱の城内に広がっている。オレンジ色の瓦屋根を載せた石造りの家々や教会の塔が、ぎっしりと立ち並ぶ。多くは、1667年の大地震後に再建されたものだが、調和のとれた美しいたたずまいは中世そのもの。紺碧のアドリア海がコントラストをなす。その昔、絵本で見たヨーロッパのおとぎの国の風景のようだ。タイムマシンで時代をさかのぼり、当時の町を片隅から眺める心地がする。
当時、美しい古都に砲弾が撃ち込まれ、水や電気の供給も絶たれたため、人々は文字通りの籠城を強いられた。1979年に世界遺産に登録されていた古都は一時、「危機遺産」に入ったが、耐え抜いた市民の努力により危機遺産は解除され、中世の町並みを取り戻したのである。
要塞から遊歩道を下ると、城内の西側の入り口であるピレ門の上に出る。ここで、城壁を降り、町中を巡ると、左手にフランシスコ会修道院が立つ。
14~15世紀にかけて建てられた建物は大地震で崩壊し、再建された。幸い、中庭は14世紀のまま残り、庭を囲むロマネスク様式の回廊が続く。それを支える2本で1組に構成された六角柱が意匠を違えて並び、荘厳なたたずまいを見せる。
院内には、1317年に開設され現在も営業しているマラ・ブラーチャ薬局がある。ヨーロッパで3番目に古い薬局といわれ、
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