“アドリア海の真珠” ドゥブロヴニクの温故知新
人生100年時代の旅の愉しみ【5】世界遺産のリゾートは「検疫」発祥の地
沓掛博光 旅行ジャーナリスト

「アドリア海の真珠」と呼ばれるクロアチア共和国の古都、ドゥブロヴニク(筆者撮影)
検疫の重要性を身を切る思いで知らされたのが、今回のコロナ禍である。海外旅行から戻り、立ち止まることもなく通過していた空港内の検疫カウンターが、現在は新型コロナウイルスの侵入阻止の最前線、水際防疫の最重要ポイントになっている。
旅は時代を映して様々な事象と出合う。人生100年時代の今、交通網の発達と旅行人口の増大は、感染症を全地球的に広める危険性もはらみ、日々、検疫の役割の重大性が伝わる。
検疫の始まりは14世紀。黒死病と恐れられたペストが大流行したころだ。世界に先駆けて検疫制度を導入したのは、ヴェネチアと共に地中海貿易の覇者といわれた「ドゥブロヴニク」である。この地の検疫の歴史をたどると、国や町づくりの要諦が見えてくる。
城壁の外、17世紀の検疫所が海を臨んで立つ
ドゥブロヴニクは、クロアチア共和国の南端部にある古都だ。南側にアドリア海が広がり、北側にスルジ山が控える。山から望む海は、どこまでも紺碧に広がり、家々を覆うオレンジ色の屋根瓦は、あくまでも明るい。ヨーロッパの、いや世界のリゾートとして人気が高く、“アドリア海の真珠”と呼ばれ、親しまれている。
ドゥブロヴニクの歴史は古く、かつてはラグーサと呼ばれていた。ドゥブロヴニク市観光協会の資料によれば、2世紀にローマ帝国の支配下にあったという。
5~6世紀にかけて町作りが始まり、ヴェネチア共和国、ハンガリー王国などの支配下にありながらも地中海貿易で大いに国力は増し、14世紀にラグーサ共和国として独立。その中心となったのが、城壁に囲まれた首都ドゥブロヴニク。現在のドゥブロヴニク市の旧市街地である。今も中世の面影を伝え、観光の中心でもあるが、紹介は後に譲り、まずは、検疫制度と隔離の施設を見ていこう。
旧市街の出入りには、城壁にある3つの門のいずれかを利用する。旧検疫所は、そのひとつ、旧港を望むプロチェ門近くにある。門を出てすぐに、高い石造りの壁にオレンジ色の屋根瓦を載せた大きな建物が海に面して立っている。

港近くに立つ「ラザレット」。かつては検疫と隔離の施設だった(アントゥン・バチェ氏提供)
これが、「ラザレット」と呼ばれる旧検疫所で、隔離施設でもあったところだ。
1590年から建設が始まり、1642年に完成した。なお、ラザレットとは、クロアチア百科事典によれば、ヴェネチア近郊の島、サンタマリアディ・ナザレスにできた隔離施設に由来し、感染者の守護聖人ラザロの名に派生してラザレットと呼ばれたことからきている、とある。
地中海貿易の覇者ドゥブロヴニクが創出した検疫制度
地中海貿易が盛んな14世紀から17世紀にかけて、ドゥブロヴニクの港には、ヨーロッパやアジアと取り引きする多くの船が出入りした。このため、共和国は伝染病や不審船が入ることを極度に警戒し、夜間には港の端と端を鎖でつないで不審船の入港を止める措置をとり、伝染病に対しては検疫の制度を取り入れた。
ドゥブロヴニク再建機構がまとめた「ドゥブロヴニクにある検疫所―ヨーロッパの検疫の始まり―」(2018年)の資料によれば、ドゥブロヴニク評議会は1377年にペストの侵入を抑制するための法律を制定。ドゥブロヴニクに来る国内外の船舶を、当初はラザレットではなく、南東に約20キロ離れた港町ツヴァタトゥの沖に浮かぶムルカン島などに滞在させることにした。
今から約640年前、日本で言えば室町時代初期のころである。同資料では、多くの科学者はこの制度は他の地中海の都市と比較して優れ、独創的であり、世界で最初の検疫規制と見なしている、と記述している。