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文学のために――緊急事態をやり過ごすために

こんなとき平常心を保つ一番良い方法は、私の場合

吉岡友治 著述家

 この論座の記事では、コロナのことなど書くまい、と意地を張っていたら、何だか、だんだん書くことがなくなってきてしまった。というのは、その間に、身近な人の感染がわかって、その容態がどうなるか、と家族中で一喜一憂していたからだ。「もう救命できないかも」とか「覚悟しておいて下さい」とか何度言われたことか。そのたびごとに病院に駆けつけ、回復を祈り、しかし結局面会もできずに、すごすごと自宅に帰る。そういうことの繰り返しだった。

 もちろん、医師や看護師の方々は頑張ってくれた。「未承認の薬だが使いたい」とか「すぐ人工呼吸器につなぎます」とか、いちいち連絡が来る。「回復するかどうかは五分五分です」などと、その判断はしばしば悲観に傾いたが、選択した治療法がどういう効果が出てくるか、分からない中、結果的に最善のことをしてくれたのだ、と思う。本当に感謝に堪えない。

 幸いにして、病人はやっと人工呼吸器が外れ、とりあえず隔離病棟に戻ってきた。少しずつ食欲も戻ってきたとか。幸運だったと思うが、治療が功を奏さずに、亡くなった知人も少なくない。たとえば、俳優・劇作家の和田周さん。40年程前、初台にあった体操教室で出会った。「今年の冬は経済的に厳しいから、焼き芋の屋台を引っ張ろうと思うんだ」と話す、きさくなオジサンだったけど、あれよあれよという間に、劇作家として活躍するようになった。ちょっと大人の雰囲気がある洒落たお芝居で、飄々とした感じが面白かった。個人的には、二十年ほど会っていなかったが、彼の名前を久しぶりにニュースで見たなと思ったら、コロナ感染で亡くなっていた。

文学に何が出来るか?

カミュ『ペスト』の舞台になったアルジェリアの都市オラン Shutterstock.com

 こんなときに、平常心を保つ一番良い方法は、私の場合、本を読むことだ。アルベール・カミュの『ペスト』が読まれているらしいが、ちょっと状況とくっつきすぎていて、わざわざ読む返す気がしない。ジャーナリスティックすぎる。文学の効用は、現実とべったりすることではない。ちょっとだけ現実から離れ、物語という別の世界に入る。その中で、当面のどうしようもなさを忘れ、別の秩序で生き生きと動くことができる。

 ドイツにいる友人からは「今、何を読んでいるの?」とメールが来た。彼女の周囲では、せっかくの機会だからと、プルーストの『失われた時を求めて』全巻読破とか、いやいやトーマス・マンの『魔の山』が病気ものだからしっくり来るとか、かまびすしく議論されているらしい。

 私は、とりあえず『源氏物語』を冒頭から読み出した。古典文学も教えたことがあるので、『源氏』は有名な箇所だけはところどころ目を通していたのだが、「いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひたまひけるなかに…」から始まる文章を最初から通読するのは初めてだった。初めのうちは、なかなか進まなかったが、慣れてくると『源氏』独自のねっとりくねくねした言い回しが、あまりにも浮き世離れして、かえって快感になってくる。気がつくとコロナのことは忘れている。

実学か虚学か?

 文学など、非常時には何の役にも立たない、と良く言われる。しかし、このウイルス騒ぎで明らかになったことは、経済や法律などの「実学」が、文学以上に「無能」だったことだ。

 そもそもウイルス禍に対して、経済や法律の「実学」は何か有効な手立てが打てたのだろうか? 何もできていない。ウイルスの蔓延に対して

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