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映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』を撮って~小川淳也との17年

大島 新 ドキュメンタリー監督

 小川淳也衆院議員の17年間の政治活動を追ったドキュメンタリー映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』が公開前からSNSで話題を呼んでいる。映画の公式サイトには安倍官邸に近い政治ジャーナリストの田﨑史郎さんから、政権批判で注目を集めている俳優の小泉今日子さんまで、幅広い顔ぶれが推薦コメントを寄せている。公開に先立ち、大島新監督が映画に込めた思いを論座に寄稿した。(論座編集部)
2017年、高松で小川淳也氏にインタビューする大島新監督(手前)

2016年初夏  この映画を公開しなければ死んでも死にきれん

 2016年6月。いつもの食事会でのことだった。小川淳也と小川の秘書、政治ジャーナリストの田﨑史郎、フジテレビのプロデューサーと私が年に数回集まる会合で、小川の話を聞いていた時のことだ。

 安倍政権は盤石、所属する野党・民進党には浮上の目がないとぼやく小川の姿を見ながら、私は「この人をもう一度取材して、映画にしたい」という、つきあがるような思いを抱いた。

 「なんでこんなに真っ当で優秀な人が、うまくいかないんだ」

 それは怒りにも似た気持ちだった。もちろん、小川への怒りではない。政治の世界への怒りだ。安倍政権に近い田﨑が、余裕綽々で野党をこき下ろしていたこともその気持ちに拍車をかけた。

政治ジャーナリストの田﨑史郎(右)との食事会

 翌日、私は一気に企画書を書いた。タイトルは、「なぜ君は総理大臣になれないのか」。

 書きながら、なぜか興奮状態に陥った私は、「この映画を完成・公開しなければ死んでも死にきれん」と自分に言い聞かせた。小川が官僚を辞め2003年に初出馬するときに、猛反対する家族に対して言った言葉を、思い出したからだ。

 「このままでは死んでも死にきれん」

 2016年7月13日、小川に取材依頼をするために議員会館を訪れた。この不遜な映画のタイトルを小川がどう思うかが心配だった。

映画企画書

 だが私はこのタイトルにこだわっていた。映画のテーマを規定するからだ。

 緊張しながら企画書を見せるやいなや、小川は「なぜ君は……いいじゃないですか、面白い!」と笑った。

 この時期、閣僚をはじめとする政治家の不祥事や失言があいつぎ、自民党のいわゆる「魔の2回生問題」が世間を騒がせていた。にもかかわらず、安倍政権は盤石に見えた。

 そのことを小川に問うと、「この10年よく思い浮かぶのは、人生の8割は我慢、残りの1割は辛抱、最後の1割は忍耐」と言う。思わず笑ってしまった。全部我慢ではないか。

2016年 議員会館にて取材依頼

 そこからはじまったインタビューは、直近にあった参院選のこと、イギリスのEU離脱についてなど、話は多岐にわたった。安倍政権が3年半続いているなかで、野党第1党である民進党の現状のふがいなさも口にした。

 しかし、そのふがいない党内で、自分自身が「出世」していないことが、小川にとって何より歯がゆいことだった。

 日本の未来のために政策提言をしたいのに、党の幹部からは安倍政権の攻撃をしろと言われる。国民のため国家のためという思いなら誰にも負けない気持ちでいるのに、党利党益に貢献しなければいけない……。

 1時間ほどのインタビューで、最も私の心に残ったのは、「うちのおふくろなんかは、要らないなら息子を返してくれって言ってますよ」という言葉だった。

 小川はこのままでは政界にとって「要らない」人材なのか。そうか、あの時とてもよくしてくれた心優しい“パーマ屋”のお母さんが、そんなことを言ってるのか……。

 私はその言葉を反芻しながら、議員会館を後にした。

2003年秋  政治家を笑ってるうちは、この国は絶対に変わらない

 きっかけは、妻のなにげない一言だった。

 「高校で一緒だった小川くんっていう子が選挙に出るんやって。奥さんのあっちゃんが私とクラスが一緒やったんやけど、あっちゃんは大反対したみたい」

 その言葉が、職業柄ドキュメンタリーの企画をいつも探している私の心にひっかかった。妻は香川県立高松高校出身。

 「小川くんは野球部でめちゃめちゃ頭が良くてしかも性格もよくて、こんな子ほんとにいるんかっていうぐらいの好青年。あっちゃんはめちゃくちゃ可愛くて、二人ともキラキラしてたんやで。東大を出て官僚になったって聞いてたけど、なんで政治家なんか目指すんかな」

 “政治家なんか”。その言葉が、政治家という職業の世間での評価を表していた。

 私は直感的に、会ってみたい、と思った。妻に口添えをしてもらって事務所に連絡し、その日から数日後の、ちょうど事務所開きが行われる10月10日にアポをとった。その日は、小泉首相による衆議院の解散が予定されていた。

2003年 小川と初めて会う

 高松市の事務所での初対面の瞬間からカメラを回した。名刺交換も早々に、事前にFAXで送っていた企画書のタイトルに違和感がある、と小川は言い出した。そのタイトルは、「地盤・看板・カバンなし。それでも…政治家になりたい!」というものだった。

 いわく「政治家になりたい、と思ったことは一度もないんですよ。“なりたい”ではなく、“ならなきゃ”なんですよ。やらざるを得んじゃないか、という気持ちなんです」。その後に続いた小川の言葉が、17年間にわたって彼と交流を続けることになる決定打となった。

 「政治家がバカだとか、政治家を笑ってるうちは、この国は絶対に変わらない。だって政治家って、自分たちが選んだ相手じゃないですか。自分たちが選んだ相手を笑ってるわけですから、絶対に変わらないと思ったんですよね」

 そして、やるからには総理大臣を目指す、自分で国のかじ取りをしていくつもりだと言い切った。

 小川32歳、私は34歳。2歳年下の真っすぐな目をした男に、惹きこまれた瞬間だった。

2003年 初めてのインタビュー

真っ当で筋の通った家族たち

 結局、この選挙で小川は落選する。

 およそ1カ月にわたる取材の中で、強く印象に残ったいくつかのこと。まず家族。両親、妻、妹弟たちは、驚くほど普通の、真っ当な人たちだった。

 妻の“あっちゃん”こと明子さんは、高校を出て地元の香川大学に進み、幼稚園の先生をしていたが、二人の娘の出産や自治省(のち総務省)の官僚だった小川の転勤について回ったことで、専業主婦となっていた。

 小川の妹の瞳さんは、出馬の決意を聞いたときに「吐きそうになった。でもお義姉さんに聞いたらもう吐いたって」と言う。明子さんは、ただ好きになった人が高校時代の小川青年だっただけで、「政治家の妻」になることに何ひとつ喜びを感じていなかった。

 自分は選挙事務所に遅くまで残るため、「帰りたくない」と泣きじゃくる幼い娘二人を車に乗せる。実家に預けるために、おばあちゃんが運転する車を見送ったあとに、涙をこらえながら語った。

 「こんなことしたくないんですけどね…子どもたちの未来のために、と思ってどこかで自分を納得させて、主人の決断を受け入れたけど、未来も大事だけど、いまも大事でしょう?」

 そう、小川の言う「子どもたちの未来」とは、日本中の子どもたちの未来だ。だが明子さんにとって子どもたちとは、ほかならぬ二人の娘なのだ。

2003年 妻明子さんと娘たち

 6歳年下の弟の竜司さんは、お兄さんのことが大好きで、泣き上戸。兄の事務所開きでの演説を聞いて、「いやぁ、惚れ直しましたわ」と屈託なく言う。20代の会社員として忙しいなか、時間を見つけては兄の選挙を手伝っていた。

 3人の子どもを育てたご両親もまた、ごく普通で真っ当でありながら、一本筋の通った人たちだ。

2003年 両親インタビュー

 小川の真っすぐな性格が育まれたのは、このご両親のもとで育ったからなんだな、と感じたのは、こんな言葉を聞いた時だった。「本人がいま言っている初志が、もしずれてきたり、間違った方向に行ったと感じた時は、先頭に立って引きずりおろします」という父親に、「私たちが死んだら、妹と弟が引きずりおろします」と母親が続ける。

 政治家という職業を家業ととらえ、たいした志もなく代々続けている世襲議員とその家族にこの言葉を聞かせてやりたいわ!

何事も51対49

 そして小川。取材中に一度だけ、私に対して少し感情的になったことがあった。

 小豆島の集会で、支持者が「田中真紀子さんが民主党に来てくれんかな」と言ったときに、小川は「そうかも知れませんね…」と珍しく歯切れが悪かった。実はその頃、自民党を離れていた田中が民主党入りするのではないか、という噂が流れていたのだ。

 そのことを帰りの車中で小川に問うと、「田中真紀子さんが民主党にっていうのは、51対49で、その方がいいのかも知れませんね…」と言う。その口ぶりから、小川が田中真紀子を評価していないのは明らかだった。

 私は少し挑発するように「意外ですね。小川さんは白か黒、100対0というタイプかと思ってました」と言った。それに対し小川は少しムッとしながら「それは単純、ということですか?」と聞き返してきた。あら、怒らせちゃったかな、と思いながら、「いや、51対49という言い方が意外だなと…」と言いかけると、小川は決然と語りだした。

 「何事もゼロか100じゃないんですよ。何事も51対49。でも出てきた結論は、ゼロか100に見えるんですよ。51対49で決まってることが。政治っていうのは、勝った51がどれだけ残りの49を背負うかなんです。でも勝った51が勝った51のために政治をしてるんですよ、いま」

 なるほど。小川はただまっすぐな理想主義者ではなく、バランス感覚も優れている。そしてこの発言のポイントは、「勝った51が残りの49を背負う」だ。

 この話を聞き、もう一段階小川を好きになった。この時は小泉政権だったが、「小泉と竹中に聞かせてやりたいわ!」と思った。ちなみに私の嫌いな政治家は、一に麻生太郎、二に竹中平蔵である。

2003年 自転車に乗って選挙活動

 この1か月の取材の記録は、フジテレビの「ザ・ノンフィクション」という番組で放送した。最初はあてもなくカメラを回し、旧知のプロデューサーに企画を持って行ったら、「面白そうだけど被写体がひとりでは難しいから、3人くらい取材してほしい」と言われ、小川に加え旭川の無所属の男性と、横浜で社民党から出馬した女性も追うことにした。番組のタイトルは「地盤・看板・カバンなし」。全員が落選だった。

2005年~2016年  いつしか、友人として

 放送後も小川との関係は続いた。私はその頃年に2回ほどは妻の実家に行っていたので、帰省の時に小川事務所に顔を出したりした。逆に小川が明子さんと一緒に妻の実家に遊びきてくれたこともあった。

 2005年、自民圧勝の郵政選挙で、初当選。選挙区では敗れたが、比例復活だった。

2005年 初当選

 初当選後、小川と東京で定期的な会合を持つことになる。キーマンは、田﨑史郎氏だ。うーーん。田﨑と付き合いがある、というと、私の周囲の仲間からは怪訝な顔をされる。安倍政権べったりの「スシロー」と仲がいいわけ? という疑問は、よくわかる。経緯はこうだ。

 当時私は、フジテレビの「スタ☆メン」という日曜夜の情報番組の構成作家をしていた。2006年に橋本龍太郎元首相が亡くなり、誰かに橋本の人となりを語ってもらえないか、という話になった時に、私が田﨑を推薦したのだ。

 理由は、田﨑の著書『竹下派死闘の70日』というノンフィクションが、掛け値なしに面白かったから。それをきっかけにプロデューサーが田﨑を番組に起用するようになったことが、彼がテレビの常連になっていくことにつながったので、今の「コメンテーター田﨑史郎」の製造責任の一端は私にもある。

 だが言い訳ではないが、田﨑が今のようになったのは安倍政権が始まってからで、当時は長妻昭をはじめとした民主党議員とも近かった。フジテレビのプロデューサーを介して田﨑と会い、小川のことを話したら、「一度ご一緒したい」という話になった。東京・四谷の小料理屋で、小川と田崎を私が引き合わせた。

 小川にとっては、田中角栄の時代から長く自民党中枢部を取材した「派閥記者」である田﨑の話を聞くのは、権力の最奥部を知るめったにない機会だっただろうし、田﨑は田﨑で、普段あまり接点のない野党の若手政治家と会うことに意味を感じたようだった。

 なにより、小川の優秀さは一度話せば誰もがわかる。それからずっと――途中から小川の秘書が参加するようになり――この会は続いている。

 一度だけ、私が安倍首相のことで、田﨑に食って掛かったことがある。だが田﨑は20歳近く年下の私をたしなめるように、「安倍さんを批判する人はみんな感情的になるんですよね。でもそれじゃ、安倍さんを倒せないんですよ」と言った。その時私は、なんだか自分がイケてない野党の一員になったような気分になった。

 こうした時間を過ごす中で、小川と私は被写体と取材者ではなく、友人関係となっていった。メディアの人間ではあるが、普段報道の仕事に携わっていない私は、小川にとって本音で話しやすい相手だったのかもしれない。多忙ゆえ、あまり本を読む時間のない小川に、おススメの本を紹介したりすることで(そしてそれを小川が読み、面白がったことで)関係が深まっていった。

この人は政治家に向いていないのではないか

 この時期の小川にとって最も大きな出来事は、言うまでもなく2009年の政権交代と、2012年の民主党政権崩壊である。

 民主党政権が出来てからすぐに会ったとき、小川の顔は輝き、やる気が漲っていた。自身の東京後援会発足の会合では、これからのリーダー論をきっぱりと語った。

 小川の政策の根本は、人口減少及び超高齢化が進む未来に向けて、持続可能な制度設計をし直す、ということに尽きる。北欧諸国型の高福祉国家を目指すために、国民に負担を強いることをお願いするのがこれからの政治リーダーである、と常に語っていた。

 国際的には協調主義で、アメリカ一辺倒ではなく、中韓はじめ近隣諸国はもちろん、世界中の国との円満かつ緊密な関係構築を主張している。そのためにも、外国人材の受け入れを推進し、日本をもっと広く開放するべき、と考えている。

 政治用語でいえば、中道左派、穏健なリベラルといったポジションにいると言える。ただし、小川は中央官庁(総務省)の出身だけに、リアリティを持って「国を運営する」という意識があるので、いわゆる「左派」とは一線を画している。

 私の学生時代からの友人の、大手紙の政治記者は「小川さんって、昔だったら宏池会にいてもおかしくないよね」と言っていた。宏池会と言えば大平正芳首相らを輩出した自民党の名門派閥、いわゆるハト派である。

 友人の政治記者がそう言いたくなる気持ちもわからないではないが、それは見立て違いだ。なぜなら、小川には自民党から出馬するという選択肢はなかったから。小川は自分の出自が庶民である、ということにこだわっていた。

 そして地元の香川1区の対抗馬が、自民党の平井卓也氏であることも大きい。平井氏は3世議員で、香川県でシェア6割を誇る四国新聞や日本テレビ系の西日本放送のオーナー一族。地元香川の政財界を牛耳る平井家のような存在とは、自分は一線を画するのだ、ということを強く意識している。

2011年 東京後援会発足

 時は過ぎ、2012年の民主党政権崩壊は、小川に大きな衝撃と挫折をもたらした。自民党安倍総裁の挑発に乗るように衆議院を解散して、民主党の大敗を招いた野田佳彦代表に怒りと失望を抱いていた。小川は辛くも比例復活当選したが、民主党は大きく議席を減らした。

 それからいまこれを書いている2020年5月に至るまで、ずっと安倍政権である。以後、小川の表情は会うたびに苦悩に満ちていった。

 やがて私は、「この人は政治家に向いていないのではないか」と思うようになる。日本でも世界でも、威勢のいい過激な言葉を使う政治家に支持が集まるようになっていた。そんな風潮の中で、小川の誠実さがあだになっているように感じていた。

 さらに小川は、党内での社交を好まず、遊泳術にも長けていない。いわゆる世渡り下手だ。やはり政治家には、多少なりとも「清濁併せ呑む」という資質が必要なのではないか。

 小川に対する期待がしぼんでいき、いまの状態では総理大臣など夢のまた夢のような気がした。この歯がゆさが、もう一度きちんと取材をしたい、という思いにつながった。

2017年夏  目まぐるしく動く政界

 3年前に政治がどんな動きをしていたか、思い出せる人は少ない。私自身もそうだ。

 私は、すべてを描き切れるものではないにせよ、小川淳也という政治家を通じて、2017年の政治に何が起きていたのか、ということを記録として残したいと思った。

 後の大混乱を招く号砲となったのは、7月2日の都議会議員選挙での都民ファーストの会の大勝利だった。これにより、小池百合子東京都知事の存在感が異様なほど高まった。中央政界で閣僚経験もあり、野心も隠さない小池。「安倍首相を倒せるのは小池しかいないのではないか」という空気がじわじわと広がっていく。

 この都議会議員選挙では、自民党も散々だったが、民進党も惨敗だった。蓮舫代表は党運営に行き詰まり、7月27日に辞任を表明し、前原誠司と枝野幸男の一騎打ちで代表選挙が行われることになった。

 小川はこの代表選挙にかけていた。前原の最側近として、「ALL for ALL」の政権公約原案をまとめ、民進党をもう一度政権交代が可能なしっかりとした野党第一党にするために身を粉にした。

 9月1日、結果は小川の願い通り前原の勝利。小川は党役員室長に就任し、ささやかな出世を果たした。

 しかし、ここからがひどかった。「政界には3つの坂がある。上り坂、下り坂、まさか、だ」という言葉があるが、その「まさか」という展開だった。

 小池百合子都知事が国政政党を立ち上げるという動きがある中、民進党を離党していた細野豪志ら一部の議員が合流を表明、民進党に動揺が広がる。

 野党勢力のドタバタを安倍首相は見逃さなかった。9月25日、消費税の使い道を変更するために国民の信を問う「国難突破解散」という名目で、28日に衆議院を解散することを表明した。解散の理由は意味不明ながら、「勝てるときに解散する」という安倍首相の勝負勘は、結果として冴えていたことになる。

 これを受け、前原代表が小池新党「希望の党」との合流を決断する。9月28日、衆議院解散を受け、民進党は両院議員総会を開き、「全員が」希望の党に行くという決定を下した。小池のもとに野党勢力が結集し、安倍首相と対峙する、はずだった。

 ところが翌29日の小池の発言が流れを変える。

 「私どもの政策に合致するのかどうか、様々な観点から絞り込みをしていきたいと考えております。全員を受け入れるということは、さらさらありません」

 人間とは、忘れやすい生きものだ。いま、コロナ禍の中で、小池都知事は東京のリーダーとして支持を集めている。しかしわずか3年前にこんな発言をし、政界を大混乱に陥らせたことを、私は忘れたくない。

 この激動の数日間は小川とは話せず、秘書を通じて状況を探り、2日後の10月1日に高松に向かうことに決めた。

2017年 選挙公示日

2017年秋 無残な選挙戦

 私が現場で見たあまりにも悲壮な、しかし見る人によっては滑稽な総選挙での小川の姿は、映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』の中で詳細に描いた。

 「猿芝居だ」と言いながらも、息子の選挙を懸命に手伝う父親と母親。ほとんどの人に無視されながら、父のためにビラを配る娘たち。高松で最もにぎやかな商店街では、娘二人の目の前で、年配の男性から「安保法制反対しとったじゃろが!イケメンみたいな顔しやがって、心は真っ黒やないか!」と罵声を浴びせられた。

2017年 高松の商店街で有権者と

 3年近くたった今でも目に焼き付いている瞬間が多くある。そのすべてを記すには紙幅が足りないので、私の心に強く残った小川とのやりとりを2点、ここに書く。

 ひとつは、事務所で支持者への説明会を行ったあとに話を聞いた時のこと。支持者の男性から「小池さんに不信感があるから、希望の党に行ってほしくない」と言われ、小川は「小池さんは眉唾だとずっと思ってきたが、安倍首相を倒す政権選択選挙だと言った彼女を、今回は許容範囲に置きたい」と苦しい回答をしていた。

 私は政界の不思議、というかわけのわからなさを問いたかった。例えば細野豪志。民進党をいち早く離党して、小池に近づいて行ったときには、私は「本当に中身のない、みっともない政治家だな」と思った。ところが結果として希望の党では小川の上にいるわけである。

 その現実をどう思うのか問うと、小川は「なんというのかな、途方に暮れそうになるのはそういうところで、つまり政治に必要なのは、ある種誠意とか、1本の筋道とか一貫性とか、人望とか人徳とか、そういう教科書的な考え方ってあるじゃないですか。でも細野さんとか小池さんを見てると、政治に必要なのはただ一つ、“したたかさ”だけなのか、と。そういう無力感に襲われる時がありますよね」と語ったあと、黙り込んだ。

 もう一つは、選挙カーに同乗していた時のこと。トイレ休憩で駐車場に止まっていた時、小川が突然私に聞いてきた。「大島さんどう思われます? 今回の判断、決断は。無所属でもよかったと思う?」「思いますね」「そうですか。無所属ねぇ……」。小川はため息交じりにこう続けた。

 「ずいぶんおかしな方向に振れましたよね。安保と憲法で踏み絵にして、“さらさらありません”“排除します”。まあ調子に乗りましたよね。むしろ打倒小池ですよ。いやぁほんとに、変な感じになっちゃったなぁ。まあ無所属はかっこいいわね。潔い。葛藤がない。無所属ねぇ……」

 結局、小川は無所属で出馬することを決断できなかった。

 希望の党との合流は(民進)党が決定したこと。前原の最側近として、その決定には小川にも責任があること。無所属では比例復活がなくなること。理由をつければ、色々あるだろう。しかし最終的には、酷な言い方をすれば、小川の弱さだと思う。

 自分が所属する党の代表に不信感を抱きながら闘う選挙は、結果も無残だった。またしても選挙区で敗れ、比例復活当選だった。

選挙結果にうなだれる小川

2018年~19年 落とし前、そして浮上

 2018年5月、あだ花としか言いようがなかった希望の党は、あっさりと崩壊した。解党し、受け皿として国民民主党が結党されたが、小川は合流せず、無所属の道を選んだ。

 話を聞きに行くと、「昨年犯した過ち…本当にそうしたいと思わずに進んだ結果、多くの有権者をがっかりさせてしまって、どう落とし前をつけるのかと。もはや仁義では政治はやれない。前原誠司への仁義、玉木雄一郎への仁義はあるけど、無所属を選びました。出直しです」と語った。小川の顔は、すっきりしていた。

 そして2019年2月、統計不正についての小川の国会質疑が、SNS等で話題になる。

 一見地味にも思えるネタながら、調べつくしたデータをもとに、渾身の力を込めて安倍政権を追及する小川の言葉は、口先だけではない、全人格的な迫力があった。言葉に、全体重が乗っていた。

 小川は、これを機に一部の国会ウオッチャーから注目されるようになる。浮上の瞬間だった。

2019年 国会質疑で統計不正を追及する小川

2019年初秋  家賃47,000円の家で

 ドキュメンタリーをどう終わらせるかは難題だ。

 撮り始めることはそれほど難しくないが、何をもって終わりとするのか。テレビなら決められた「放送日」というものがあり、そこに向けて作るしかないが、映画は「いついつまでに公開してくれ」と誰にも頼まれていない。私が決めるしかないのだ。

 小川淳也の政治活動は続くが、映画としてはいったんマルをつけたい。私は、安倍政権のうちに公開したいと考えていた。2020年の東京オリンピックが盛り上がっている頃に、あえて名もなき野党政治家のドキュメンタリーを世に問いたい。

 ラストは、これまで行ったことがない自宅で話を聞くことにした。

 小川が生まれ育った高松市円座町。家賃47,000円の賃貸アパートで、夫婦の食卓を撮影した。大好物の「あげ」を食べながら、最近は歳を感じると語り合う二人。なんだろう、この庶民感は。別にカメラの前で演じているわけではないのだ。

2019年 妻との食卓

 食後、2003年に初出馬したときのチラシを見せてくれた。そこには、小川がこれから政治家を続けていく上で、ある重大な公約が書かれていた。その公約を踏まえた上で、小川はこれからどうなっていくのか。そのことを問うて、取材の終わりにした。

 ここまで撮影した分を編集し、2020年3月に映画は完成した。試写会も行った。しかし、新型コロナウイルス感染拡大。映画は6月公開だからまだ間に合う。ポスト・コロナの社会の在り方についての小川の考えを、ラストに足した。取材はいったん区切りをつけ、映画は公開するが、私はこれからも小川淳也を見つめ続けるつもりだ。もちろん、時にはカメラを持って。

 『なぜ君は総理大臣になれないのか』は6月13日から順次公開されます。予告編はこちらこちら