ジャーナリズムは「権力監視」のため 記者は結果で示すしかない
2020年06月17日
産経新聞の検察担当記者2人と朝日新聞社員(元検察担当記者)の計3人が黒川弘務・東京高検検事長=辞職=と「賭けマージャン」を繰り返していたことが明らかになり、それをきっかけに「権力と記者の関係」があちこちで議論されている。記者クラブを拠点とする記者が日常的に権力側の要人と酒を飲んだり、夜に自宅を訪ねたりするのは、取材ではなく癒着ではないか。そういった批判である。
この出来事を通して見える問題には、いくつものポイントが含まれている。「取材とは何か」「取材プロセスの可視化」「権力監視の可能性と限界」……。そういった現代のジャーナリズムの論点がてんこ盛りで、メディアの教科書にもなりそうだ。
ただ、インターネットの記事やSNSの投稿を追っていくと、問題のポイントが整理されぬまま議論が交錯しているようにも映った。百家争鳴であり、善悪の回答を性急に求める二項対立の議論に陥っているようにも見えた。
朝日新聞朝刊の人気コラム「池上彰の新聞ななめ読み」は5月29日、「黒川氏との賭けマージャン 密着と癒着の線引きは」と題する記事を載せた。
コラムは「この原稿を書くのは、なんとも気の重いことです」で始まる。全文1500字余り。池上氏ならでは、の軽妙なタッチであっという間に読み進んだ読者も多かっただろう。
同時に、どこかもやもやした、隔靴掻痒の感を抱いた読者もいたのではないか。私自身はかなりの違和感を覚えた。
黒川検事長という時の人に、ここまで食い込んでいる記者がいることには感服してしまう。自分が現役の記者時代、とてもこんな取材はできなかったなあ。
朝日の社員は、検察庁の担当を外れても、当時の取材相手と友人関係を保てているということだろう。記者はこうありたいものだ。
こう記した後、賭けマージャンそのものを「さすがにまずい」と批判し、池上氏の体験が綴られる。氏はNHKの記者として警視庁を担当していた2年間、「たいした特ダネ」も書けないまま担当を外れ、忸怩(じくじ)たる思いを抱いたのだという。
池上氏は書いている。
上司から言われたことは忘れられません。記者の心得として、「密着すれど癒着せず」という言葉でした。
取材相手に密着しなければ、情報は得られない。でも、記者として癒着はいけない。
池上氏はさらに、読売新聞の大阪社会部で事件記者として鳴らした大谷昭宏氏のコメントも引用している。それは「記者は取材相手に食い込むために、お酒を飲んだり、マージャンやゴルフをしたりすることもある」「(権力を持つ側が)発表した文書を通り一遍に伝えるだけでは記者の仕事は成り立たず、読者にディープな情報を届けられなくなってしまう。新聞には公器としての役割がある」という内容だ。もちろん、賛同しての引用である。
一般読者なら賭けマージャンに強い疑問や嫌悪感を抱き、このコラムを読んだ後に「ごちゃごちゃ言う前に賭けマージャンの実態を書けよ」と思う人も少なくないのではないか。確かに、常習賭博は違法である。
ただ、私の「違和感」は別のところにある。それは、池上氏のコラムには肝心なことが書かれていない点にある。
池上氏が言う「ここまで食い込んでいる記者がいることには感服してしまう……記者はこうありたい」にしても、「取材相手に密着しなければ、情報は得られない」にしても、それが何のためであるかは明示されていない。大谷氏のコメントを引用しながら「ディープな情報」を得るために密着は必要と言っているに過ぎず、得た情報をどうすべきかの方向性をあいまいにしたままペンを置いている。
いわば、食材を調理する方法のみをまな板に上げ、誰のためにどんな料理を出そうとしているのかについては問うていないのである。「取材は権力監視のためにある」というジャーナリズムのイロハのイが抜け落ちている。
2003年夏、四国の地方紙「高知新聞」が高知県警の捜査費不正を大々的に報じたことがある。高知は筆者の郷里もあり、縁あって2012年から5年間、歴史あるこの新聞社で報道デスクも務めた。
高知県警の捜査費不正とは、捜査に必要な予算(国費)を組織内部で虚偽文書を作成するなどして裏金とし、幹部らが不正に使っていた疑いがある、という問題だった。後に全国で発覚する警察裏金問題の源流でもある。警察が私的流用を否定し続けたこともあり、組織的な公金横領というど真ん中の“権力犯罪”については、白黒が確定しなかった。そうであっても、この問題を白日の下に晒した高知新聞の功績が消えるわけではない。
取材を担った社会部記者は、サツ担当だった。日頃は警察幹部らと酒を一緒したり、自宅を訪ねたりしながら捜査情報を入手し、「重要参考人浮かぶ」「あす逮捕へ」といった記事を書き続けていた。警察組織全体を敵に回したら、そうした情報は入手できなくなる可能性がある。
だから、彼は当初、大いに悩んだという。
高知は全人口70万人程度の小さな県だ。県庁所在地の高知市にしても、都会とは比べものにならない。休日になれば、記者と警察幹部らのそれぞれの家族が街で行き交うことも珍しくない。権力と報道のいずれも、地域社会を支える住民である。霞が関・永田町では想像もできないほど双方の距離は近い。中堅幹部以上の警察官はほとんど知り合いだ。組織的な公金流用を暴けば、そのうちの何人かは処分され、傷つくかもしれない。犯罪の容疑者になるかもしれない。警察幹部らと築いてきた「良好な関係」も終わるだろう。
他方で、書かないことの利益も感じた。報道せずに“貸し”を作れば、事件事故取材のネタをたくさんもらえて、「警察担当記者として我が世の春を謳歌できるのではないか」と思ったからだ。
書くか、書かないか。何日にも及ぶ逡巡に決着をつけたのは、当時の社会部長だった。部長はこんなことを語ったという。
「おまえ、記者だろう? 何のために記者になった? 記者として取った情報は読者のものだ。国民のものだ。読者はそれを期待して安くはない購読料を払ってくれている。だから、書け。それにおまえ、権力監視が記者の仕事だろう? 情報は読者のものだ。自分1人の、個人的事情でどうこうすべきものじゃない。書け。裏を取ってきちんと書け」
結局、高知新聞は捜査費不正の問題を書きまくった。その数年前には、県が同和関係の団体に便宜を図り続けていたという「高知県の闇融資」にも切り込んだ。県と県警。地方紙にとっては、日々向き合わざるを得ない巨大権力である。その“権力犯罪”を記者クラブに陣取る記者たちが明るみに出したのだ。
何のために記者は権力の懐に飛び込むべきなのか。
答えは簡単である。権力監視の役割を果たすためだ。権力が不都合を隠したり、不作為を働いたりしていないか。権力の意図やミスによって、不公正な出来事や国民の不幸を引き起こしていないか。それをひたすらウオッチングし、白日の下にそれらの事実をぶちまけることこそが、報道の本務である。そこが揺らいだり、あいまいにしたりすると、おかしなことになっていく。
権力と報道の関係は、議論の尽くされたテーマでもある。ただ、賭けマージャンをきっかけにした今の論調は「密着は是か非か」「酒席は許されるかどうか」といった二分論が大勢を占めているように映る。もっともっと丁寧な議論が必要だと思う。
例えば、である。
欧米の記者は毅然としており、権力と親しくならない、という意見がある。特にSNSにはそうした声が多いようだ。その多くは「取材相手と親しくなってはダメだ、欧米では議員とお茶も飲まないのがジャーナリストだ」という。
しかし、ガイドラインにそう書いてあったとしてもそれに反する営みはたくさんあるだろうし、どの国であっても記者が加わるインナーサークルはある。実際、権力側とお茶も飲まないとしたら、日本でも著名なデイビッド・ハルバースタムはどうやってホワイトハウスの内幕を記事や書籍にできたのか。ホワイトハウスと時に激しく対立する米ワシントン・ポスト紙においても、幹部や記者らが要人と家族ぐるみの付き合いをしていたケースは少なくない。
常習的な賭けマージャンはだめに決まっているが、では酒席はどうか。高級料亭ではなく、チェーンの格安な居酒屋ならOKか。ドトールやスタバでの接触もダメなのか。飲食費用を相手に払わせるのではく、割り勘ならいいのか。登山やBBQを一緒することも許されないのか。「相手と親しくなるな」を突き詰めると、記者は権力側の取材相手と一切交友を結ぶな、ということになる。学生時代からの友人だったり、親戚だったりしたら、どうなるのか。
結局、問題のポイントは「何のために誰のためにどんな取材・報道を実践するのか」にある。この目的こそ追求されなければならないし、共有されなければならない。「権力監視をどう実現していくか」に尽きる。
「権力監視」の目的を果たすには、どうすればいいのか。
PCの前に座って内部告発メールが来るのを待っていても、そんな情報は都合よく届きはしない。記者会見で質問しても、はぐらかす権力者やウソでごまかす当局者は古今東西ゴマンといる。もちろん、ウソやごまかしは許されないが、それに対抗するためにも権力者に突きつける証拠(=情報)が要る。
だから、記者は取材に動く。懐に入り込もうが、遊漁船で一緒に釣りをしようが、オープンデータに依拠していようが、情報開示請求をばんばんやろうが、公式会見での徹底追及であろうが、真夜中にネタ元の自宅で酒を飲んでいようが、犬の散歩を一緒にしようが、それらは全て「手段」の話である。
ポイントは、高知新聞の事例がそうだったように、得た情報をどうするかにある。
取材で得た情報は、読者・国民のものだ。要は知る権利に資する情報をゲットし、権力監視の報道を実現し、期待されているジャーナリズムの役割(そんな期待が国民の間にどの程度残っているのか心もとないが)をきちんと果たしたか、果たそうとしているか、ポイントはそこにしかない。
戦前の大本営時代やGHQによるプレス・コード(報道統制)の時代に逆戻りしたいとは、国民の誰も思ってはいないだろう。だとすれば、記者は「権力の監視」という本務を果たした、あるいは、果たそうとしていることを証明しなければならない。
どうやって?
それは「結果」しかない。後に取材プロセスを明かすことはあるにしても、途中経過での弁明や格好付けは不要だ。高知新聞の記事のように、権力の腐敗や社会のアンフェア構造を記事・番組として世に押し出すしかない。そして、記者が本務を果たそうとしている限り、経営者側は彼ら彼女らを徹底して守らなければならない。
とにかく、「結果」である。
だから、賭けマージャン問題に戻って言えば、産経新聞社と朝日新聞社は賭博が常習的になっていた構造を徹底的に検証すると同時に、今からでもいいから当の記者や元記者に記事を書かせるしかない。当の記者らは記事を書くしかない。官邸と黒川氏はどういう関係にあったのか、黒川氏は官邸をどう見ていたのか。つまり、「密着」の結果を報道で示すしかない。
「黒川氏が見た安倍官邸 辞職前の100日間」とか、内幕ルポとか、何でもいい。オフレコの約束があって書けないなら、どういうオフレコだったのかの事情も含めて周辺の話を書けばいい。もしかしたら、「こんなにすごい権力監視の記事を書くために彼らは検察中枢と密着していたのか」という意見をもらえるかもしれない。
しかし、権力監視の意思も努力も実行もないのだとしたら、賭けマージャン組3人の行動はただの癒着である。
同時に、それを長らく許容していた新聞社幹部も同じ穴のムジナである。
権力監視の結果をきっちりと出せるか。賭けマージャンの露呈よりもはるか以前から続いているマスコミへの信頼失墜を押し戻すには、それしかない。
『「リーク」とは何か~当局はジャーナリズムを使って情報操作する』に続きます。
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