メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

ゼロメートル地帯の水害・沈下の歴史――東京右半分の憂鬱

武田徹 評論家

 漂えど沈まず――。開高健が愛した言葉として有名だ。

 サインを求められると丸っこい独特の筆致でこの句を書いたという。そんなエピソードを思い出したのは、江戸川を小さな船に揺られて渡っていたときだ。

 東京都葛飾区柴又と千葉県松戸市下矢切の間を行き来するので「矢切の渡し」。その歴史は江戸時代にまで遡る。人々の移動を厳しく管理した徳川幕府は河川の横断にも眼を光らせ、船を自由に出すことを許さなかった。たとえば利根川水系河川では15カ所の「渡し」が特別に許されて営業していたという。

 明治になると幕府の管理はなくなるが、鉄道や主要幹線道路などに橋が開設されて各地の渡し船は廃止されてゆく。たとえば開高は『ずばり東京』で佃の渡し舟を取り上げている(「佃島↔明石町 渡守り一代」)。隅田川に残った数少ない渡し船だった、この佃の渡しも1964年五輪に向けた都市改造で佃大橋が架けられて姿を消した。その後、鐘紡の工場の女工たちの通勤に使われていた「汐入の渡し」も66年に廃止されて隅田川の渡しは全滅となる。

 江戸川の渡しも消えていったが、川の両岸に田畑を持ち、耕作のため陸の関所を経由せずに渡河が特別に許された農民が始めたという「矢切の渡し」だけが唯一残ったのは、人荷の輸送用としてよりも、不要不急の観光需要に支えられてきたからだ。1906年に雑誌「ホトトギス」に発表された伊藤左千夫の小説「野菊の墓」に登場、時を下って1983年には細川たかしが歌う歌謡曲『矢切の渡し』がヒットし、柴又が舞台の国民的映画『男はつらいよ』にも登場したことでその存在が広く知られ、愛されてきたのだ。

 そんな「矢切の渡し」が2019年の秋に「渡し」の休業を余儀なくされた。10月の台風19号で江戸川が増水し、船乗り場の桟橋が流されてしまったのだ。代々世襲で細々と運営されており、復活できるか心配されたが、年末年始の繁忙期前に仮普請ながら手作りの桟橋が完成し、再開にこぎつけた。

歌謡曲の大ヒットでも話題になった「矢切の渡し」=撮影・筆者歌謡曲の大ヒットでも話題になった「矢切の渡し」=撮影・筆者

 筆者が川面をゆらゆらと漂ったのは、この復活まもない時期だった。小さな船ゆえに伸ばした手先は川の水に触れる。普段だったらのんびりできていたはずの短い船旅だったが、増水の記憶がまだ新しいためか、水が潜在させている巨大な力を感じてしまう。

 たとえば江戸川区が2019年5月に発行した「水害(洪水・高潮)ハザードマップ」は、表紙に「ここにいてはダメです」と書かれていたことが話題を呼んだ。巨大台風や大雨が降って河川が氾濫したり、低気圧の影響で高潮が発生すれば区内のほとんどが水没する。だから「区内に居続けることはできない」「区外に逃げて欲しい」というわけだが、住民の安全を守るはずの自治体自らがそこまで言ってしまうのは責任放棄ではないのか。そう思った人も少なくなかったようだが、歴史を知ると江戸川区民の置かれた境遇にきっと同情するだろう。

川筋を人工的に改造してきた東京東部

 「ここにいてはダメです」問題は、「矢切の渡し」と同じく徳川時代にまで遡る。

 関東平野は3本の川の流域として形成されてきた。いちばん東が鬼怒川から常陸川と呼ばれていた川につながる水系で、銚子から太平洋に注いでいた。真ん中が今の新潟・群馬県境を水源とする利根川で渡良瀬川と交わった後、当時、太日河と呼ばれる川を通じて東京湾に流れていた。最も西側にあったのが秩父山系を水源とする荒川で、利根川と途中で交わり、下流では太日河だけでなく、住田川、中川と枝分かれしつつやはり東京湾に流れていた。

 1590年の関東入国に際して徳川家康は川筋の整理統合を目論む。初めに指示したのは利根川の東遷だ。利根川を渡良瀬川―常陸川につなげて太平洋に流した。東京湾に注ぐ川筋も残されたので、銚子から新しい利根川を遡り、太日河との合流地点で舟の向きを変えて東京湾に下るルートが利用できるようになった。東北方面から江戸に向かう物資を運んだので太日河は江戸川と呼ばれるようになった。

 一方で荒川も西遷させた。荒川と利根川の交わりを断って、より西廻りに流れるコースに変え、住田川から東京湾に注ぐようにした。こうして荒川と江戸川との間に生まれたエリアに縦横に用水路を走らせて大穀倉地帯に育てた。

 こうして主な川の流れを集散離合させて水運の利と耕地を得たが、元は荒川、利根川が下流で枝分かれてして流れていた低地である。雨量が増えると水は主河川の堤防を乗り越えて低い土地に流れ出して溢れた。とはいえ洪水は上流からの肥沃な土砂を耕地に運ぶ機会でもあり、農民にしてみれば歓迎すべき面もあった。

 メリットとデメリットのバランスが崩れるのは明治以後だ。江戸時代に開拓された新田が広がっていた荒川東側の地区でも宅地化が進む。後に江戸川区となる地域のデータを追ってみると1872(明治5)年には戸数4849、人口が2万5266人だったのが1920(大正9)年には7404世帯、3万9386人となっている。特に関東大震災以後、都心人口の郊外移転が進み、1930(昭和5)年の人口は明治5年の約5倍になったという(別所光一他『江戸川区の歴史』名著出版)。

 こうなると洪水は肥沃な田畑に滋味もたらす恵みの水というよりも日常生活を脅かす水害と意識されるようになる。

・・・ログインして読む
(残り:約3010文字/本文:約5232文字)