川筋を人工的に改造してきた東京東部
「ここにいてはダメです」問題は、「矢切の渡し」と同じく徳川時代にまで遡る。
関東平野は3本の川の流域として形成されてきた。いちばん東が鬼怒川から常陸川と呼ばれていた川につながる水系で、銚子から太平洋に注いでいた。真ん中が今の新潟・群馬県境を水源とする利根川で渡良瀬川と交わった後、当時、太日河と呼ばれる川を通じて東京湾に流れていた。最も西側にあったのが秩父山系を水源とする荒川で、利根川と途中で交わり、下流では太日河だけでなく、住田川、中川と枝分かれしつつやはり東京湾に流れていた。
1590年の関東入国に際して徳川家康は川筋の整理統合を目論む。初めに指示したのは利根川の東遷だ。利根川を渡良瀬川―常陸川につなげて太平洋に流した。東京湾に注ぐ川筋も残されたので、銚子から新しい利根川を遡り、太日河との合流地点で舟の向きを変えて東京湾に下るルートが利用できるようになった。東北方面から江戸に向かう物資を運んだので太日河は江戸川と呼ばれるようになった。
一方で荒川も西遷させた。荒川と利根川の交わりを断って、より西廻りに流れるコースに変え、住田川から東京湾に注ぐようにした。こうして荒川と江戸川との間に生まれたエリアに縦横に用水路を走らせて大穀倉地帯に育てた。
こうして主な川の流れを集散離合させて水運の利と耕地を得たが、元は荒川、利根川が下流で枝分かれてして流れていた低地である。雨量が増えると水は主河川の堤防を乗り越えて低い土地に流れ出して溢れた。とはいえ洪水は上流からの肥沃な土砂を耕地に運ぶ機会でもあり、農民にしてみれば歓迎すべき面もあった。
メリットとデメリットのバランスが崩れるのは明治以後だ。江戸時代に開拓された新田が広がっていた荒川東側の地区でも宅地化が進む。後に江戸川区となる地域のデータを追ってみると1872(明治5)年には戸数4849、人口が2万5266人だったのが1920(大正9)年には7404世帯、3万9386人となっている。特に関東大震災以後、都心人口の郊外移転が進み、1930(昭和5)年の人口は明治5年の約5倍になったという(別所光一他『江戸川区の歴史』名著出版)。
こうなると洪水は肥沃な田畑に滋味もたらす恵みの水というよりも日常生活を脅かす水害と意識されるようになる。
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